月如凛光



ふと謙信は目を覚ました。
謙信にしては珍しくぼうっとした眼差しで天井を見上げる。
柔らかな月の光の差し込む室内。
謙信は滅多に夢を見ない性質だった。
謙信にとって眠りとは穏やかに落ちてゆくものであり、夢などという騒々しいものとはここ暫く縁が無かった。
しかし。
「……」
謙信はゆっくりと身を起こすと寝起きとは思えない穏やかな声で己が忍びを呼んだ。
「つるぎはいますか」
「はっ」
すると何処からとも無く謙信の傍らには美しいくのいちが控えていた。
「如何なさいましたか、謙信様」
「わたくしのほうじゅをこれへ」
「景虎様を、ですか?」
かすがが訝しげにその名を呼んだ。
かすがが「剣」と称されるように、謙信は二人の義息子である兄の景虎を「宝珠」、そして弟の景勝を「盾」と称していた。
かすがは景虎が謙信の宝珠と称されることが悔しくてたまらない。
主はそれは大切そうに呼ぶものだからその度に嫉妬に身を焦がしている。
「ええ。どうしても、いまあわねばなりません」
そんなかすがの心情を知ってか知らずか、謙信は変わらず穏やかな表情でかすがを見ている。
「…畏まりました。すぐに」
かすがは一礼すると再び音も無く部屋からその姿を消していた。
「…これもまた、びしゃもんてんのみちびき…」
一人謙信は月明かりの中で呟いた。



その頃、景虎は景勝の部屋にいた。
お互い普段はそれぞれの屋敷にいるのだが、最近は戦の準備のためにここ謙信の座する実城に腰を据えていたのだった。
そして皆が寝静まる頃、景虎は秘蔵の酒を手に景勝の部屋を訪れたのであった。
こうして二人が穏やかに酒を酌み交わすことは意外に多い。
隙あらばお互いの屋敷を行き来する姿に、家臣たちは頭を悩ませながらも仲良きことは良いことだと安堵もしていた。
初めの頃は景勝が一方的に景虎を毛嫌いしており、そんな景勝の姿に景虎もまた景勝への接し方を掴みかねていた。
それを纏めたのが謙信だった。
そもそも、景勝が心を閉ざしていた原因が実父を謙信に暗殺されたのだと思い込んでいたことに端を発しており、その誤解が解けると次第に景勝は景虎への態度を柔和なものにしていった。
玲瓏たる美しさを持つ景虎と、厳しさを具現したような強面の景勝。
両極端にも思える二人は次第にその距離を縮めていき、今では義兄弟以上の絆で結ばれていると誰もが信じていた。
しかし、景勝はそれだけでは満足できなかった。
いつからだったであろう。家族として、親友として慕っていた景虎をそれだけでは済まない感情を抱くようになったのは。
景勝は隣でゆったりと酒を飲む景虎に視線を向ける。
すると景虎はすぐにそれに気付いて景勝を見た。
「どうした、景勝」
「…いや」
何でもない、と首を振ればおかしなやつだな、と景虎は微笑む。
その微笑みがなんとも無防備で、景勝はおかしな錯覚をしてしまう。
もしかしたら景虎もまた、などと。
「…のう、景虎」
僅かな希望に縋ってしまうのは、愚かな事だろうか。
「…わしは…」
どう、続けるつもりだったのだろうか。
景勝自身、考えて発したわけではなかった。
しかしその先を紡ぐより早く部屋の外で気配がした。
「かすがか。如何した」
人一倍気配に敏感な景虎が反応する。
それまで和らいでいたはずの表情は一瞬にして引き締められ、冷やかなものすら感じさせた。
『謙信様が景虎様をお呼びです』
「父上が?この様な時間に何事だ」
普段ならば謙信は疾うに寝ている時間だ。
『存じませぬ。ただ、景虎様をお呼びするように、と』
二人は訝しげな表情で顔を見合わせると、小さく頷いて景虎は立ち上がった。
「すまぬな、景勝。また明日にでも飲みなおそうぞ」
「ああ」
また一瞬、あの穏やかな微笑みを浮かべ景虎は部屋を出て行った。
その小さな約束が果たされることはないのだと、この時の二人には知る由もなかった。




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