月如凛光



1.幸村を受け入れる。




「…私で、本当に良いのか?」
「三郎兄でなくては嫌です!」
きつく抱きしめてくる幸村に、景虎はくすりと笑ってその体を抱き返した。
「ならばお受けしよう」
「!」
途端、今度は体を離して肩を掴まれる。
「本当でござるか!」
「ああ。ただし、信玄公と父上の許可が出ればの話だ」
すると幸村は立ち上がると「御館様に許可を頂いてまいります!」と部屋を飛び出していってしまった。
ばたばたと遠ざかっていく足音に景虎は苦笑を漏らした。
「どーゆーつもり?」
背後から投げかけられた問いに景虎はゆるりと振り返る。
「佐助殿」
突如として現れた忍びにしかし景虎は驚くでも無く「どうとは?」と返した。
「旦那の求婚、本気で受ける気?」
「そのつもりだ」
束の間二人は見つめあったが、やがて佐助がやれやれと根負けしたように視線を逸らした。
「旦那がアンタに執着してるのは知ってたけど、まさかこんな事になるとは思わなかったよ」
「私もそなたらに助けられた時はよもや女として生きる事になろうとは思わなんだ。しかしこれもまた私自身が選んだ道。馴れぬ事ばかりで迷惑をかけるやもしれぬがよしなに頼む」
すると佐助はやめてくれよ、と肩を竦める。
「頼むって言われてもね。俺がアンタに教えてやれることなんて旦那の好きな団子の種類くらいなもんだぜ」
「佐助殿の作る菓子は美味だと聞いたが?」
「げっ。何言ってくれてんのあの旦那」
「是非ご教授願いたいのだが」
「あーもー勘弁してくれよ」
掌を額に当てる佐助に、景虎はくすくすと笑みを零した。




それから一年後。
「道満丸!そうだ、手を伸ばすのだ!」
「あー!」
真田屋敷の庭では屋敷の主と甲高い子供の声が響いていた。
幸村に肩車された道満丸が落ちてくる木の葉を掴もうと手を伸ばしていた。
「ちちうえ、とれました!」
「おお!さすがは我が子!」
そんな様子を景虎が縁側に腰掛けて眺めていると、任務から帰還したばかりの佐助が傍らに降り立った。
「奥方、アレなにしてんの?」
「おお佐助か。よくぞ戻った。見ての通り木の葉を掴んでおる」
「いや、それは分かるんだけど…木の葉一枚であそこまで盛り上がれるって羨ましいねぇ」
「佐助!戻ったのか!」
「さすけ!さすけ!」
道満丸を肩車したまま駆けて来る主に佐助はため息をついた。
「どーも。戻りましたよ」
「如何であった」
「明智光秀は噂どおり豊臣に監禁されてたよ。近々公開処刑されるらしいけど、元気そうだったから脱走くらいするかもね」
「ではやはり魔王・信長は明智に討たれたのか」
しかし佐助はうーんと首を傾げた。
「それが問題なんだよねえ。光秀自身は討った気でいるんだけど首級が挙がったわけでもないし、一応城の焼け跡も見てきたけどそれらしき死体は無かったから…」
「またどこかで生きている可能性もある、ということか」
「ま、とりあえず俺様は大将のところ行ってくるから」
「うむ。ご苦労」
再びその場から姿を消した佐助に道満丸が不満の声を上げた。
「さすけ!」
「道満丸は佐助がお気に入りよの」
「ははうえ、どうまんまるはさすけとあそびとうございます」
甲高い声でそう訴える道満丸を幸村の肩から受け取り、景虎は微笑む。
「佐助はお仕事が終わったばかりだから休ませてやらねばならぬ。今しばらく待てよ」
「はい…」
抱き寄せて暫く膝の上で揺らしてやると次第に道満丸の瞼が重くなってくる。
頃合を見計らってやってきた乳母に道満丸を渡し、景虎は傍らに座る夫を見た。
「如何思う」
「うむ。恐らく信長公は生きておろう。才蔵によると最近浅井が妙な動きをしていると聞く。もしや信長公を匿っているやもしれん」
「どちらにしても豊臣の動きも見過ごせぬ。…戦になるか」
「大丈夫でござる。我ら武田と上杉が手を組んでいる以上、何者も我らを脅かすことは出来ぬ」
景虎が幸村に嫁ぐに当たってまず立ち塞がったのは信玄と謙信の説得であった。
が、これはあっさり通過できた。あっさり過ぎるほどにあっさりと。
元々今でも景虎を息子同然に思っている信玄はこれまた同じく息子同然に思っている幸村に嫁ぐのであれば何も異論は無かったし、謙信もまたこれを機に同盟を組む事になり良縁だと手放しで受け入れた。
となると問題は道満丸であったが、これもまた謙信が、
「いずれどうまんまるはうえすぎにもどってくるみ。そのときまではかいにいるもよいでしょう」
とこれまたあっさり甲斐への移住を認めた。
近習達は最初こそ反対したものの、恩赦として乱のお咎めを軽減されて黙るものが殆どだった。
そうしてとんとん拍子に話は進み、景虎は甲斐へと嫁いできたのであった。
それから一年が経ち、情勢も変わってきた。
今川は織田に滅ぼされ、その織田は明智に裏切られた。
織田軍が弱体化している今、その勢力を伸ばしているのは豊臣だった。
「三郎は心配せずとも良い。それより己が身を案じなければならんであろう」
優しく笑う幸村に景虎もまた微笑みを返して己の膨れた下腹を撫でた。
「そうであったな」
そこにはふたつめの、小さな命が宿っていた。
春が訪れるまで、あと少し。




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