月如凛光



2.越後に帰る。




「すまないが、お断りさせていただく」
「三郎兄!」
「ほお?理由を聞かせてもらおうか」
すっと細まった隻眼に、景虎は微笑を返した。
「私は父上から上杉景虎の名を授かった身。上杉以外の姓を名乗る気は御座らん」
父上のご命令ならば話は別だが、と続けると彼は手を誤ったな、と苦笑した。
「アンタ、好いた男はいねえのか」
一瞬、景虎は眼を見開いたが直ぐに視線を伏せて薄く笑みを浮かべた。
「…少し前まではいた。だが、今ではもうあやつが何を考えておるのか…私にはわからぬよ」
その言葉に察するものがあったのだろう、政宗はそれ以上聞いては来なかった。
そうして政宗は「気が変わったらいつでも来な」と言い残して真田屋敷を去っていった。
「…幸村」
「はい」
温くなった茶を一啜りしてから景虎は告げた。
「私は越後に帰ろうかと思う」
「三郎兄…」
驚いたような声を上げる幸村に、景虎は小さく頷く。
「そなたと共に過した日々はとても優しくて心地よい日々であった。感謝しておる。しかし傷も癒えた以上、ここに留まるはただの逃げだ。私は越後に戻り、現実と向き合わねばならない」
「三郎兄っ…」
「全てが片付いたら…また、会いに来てもよいか?」
「勿論です三郎兄!!」
二人はきつく抱き合い、頬をすり寄せた。
「愛しい弁丸。暫しの別れだ」
「再会できる日を心よりお待ち申しておりまする!」
そんな二人を屋根裏から覗いていた佐助はというと。
(旦那が姉離れ出来ないのって公自身が甘やかすからじゃないの?)
といつまでも終わらない抱擁に溜息を吐いていた。




越後に戻った景虎を迎えたのは、景虎派の歓喜の声と景勝派の後ろめたそうな視線だった。
「よくぞもどりました、わたくしのほうじゅよ」
既に軍役に復帰していた謙信は倒れる前と変わらぬ穏やかな笑みで迎え、景虎の胸を熱くさせた。
「父上も良くぞご無事で…」
「これもびしゃもんてんのみちびきなればこそ。…せんだってのらん、わがあねせんとういんのぼうそうもすべてはわたくしのふかくによるもの。すまなかった」
「勿体無きお言葉…!死んだ兵達も報われましょうぞ」
「そなたらにはくろうをかけた。なにぞあればいいなさい」
「…僭越ながら、景勝側についた者達への処罰を軽減していただきとう存知まする」
景虎の言葉に謙信は意外そうに目を細めた。
「ほう、なにゆえそなたをおいやったものをかばうか」
「私はこれ以上の上杉内部の不和を望みませぬ。罰をと申されるのであれば、織田が勢力を伸ばしつつある今、彼らには働きを持って示していただきたく存じまする」
「ふむ。よいでしょう。ではしょだんにかんしてはすべてはほうじゅ、そなたにいちにんいたします」
「有り難き幸せ」
「かげかつ、そなたもそれでよいですね」
それまで謙信の傍らに控えていた景勝もまた、短く応えを返した。





「道満丸は如何しておる」
謁見が済むと景虎が近くの女中を捕まえて問い質したのが道満丸の事だった。
すると景虎屋敷に仕えていた乳母が道満丸を抱いて連れてきた。
道満丸は最初こそきょとんとしていたが、景虎の姿覚えていたのだろう、景虎を認めると途端しがみ付いて大声で泣き出した。
わあわあと泣く道満丸の姿に今までの事が思い出されたのだろう、景虎もまた道満丸を抱きながらほろりと幾つかの涙を流したのであった。
そうして泣き疲れて眠ってしまった道満丸を寝かせていると、部屋の外に見知った気配がした。
「暫し待たれよ」
そっと道満丸の元を離れ、襖を開けるとそこには景勝が座していた。
「今、良いか」
これが帰還して初めて二人が交わす言葉だった。
「ここでは道満丸も起きよう。そなたの部屋でも良いか」
「構わぬ」
景虎は後を乳母に任せると景勝の後に続いて彼の部屋へと向かった。
「すまぬ」
景勝は部屋に着くなりそう頭を垂れる。
「止めてくれ景勝。もう済んでしまった事よ」
「しかし」
「くどい」
景虎はぴしゃりと言い放つが、しかしその声音はどこか穏やかさを含んでいた。
「そなたの悔いる気持ちはそなたからの文でよう分かった」
そう言って景虎は懐から一通の手紙を取り出した。
それは景勝が加藤段蔵に託した景虎への手紙だった。
「甲斐を出る時に信玄公より頂いたのだ。これがあったからこそ私はそなたを許す気になれたし、同時に父上の前で無様にも道満丸の名を呼ぶことも無かった。礼を言う」
「景虎…」
景勝が恐る恐る手を伸ばすとその手は景虎の手に取られ、そっとその白皙の頬に添えられた。
「私は、帰ってきたぞ…景勝」
その微笑みに耐え切れず景勝は景虎を抱き寄せた。
「景虎…否、三郎。わしはそなたにずっと言わねばならぬ事があった」
景虎は抵抗するでも応えるでも無くただじっと景勝に抱かれている。
「わしは…そなたを愛しておる」
その言葉に景虎は目を閉じると景勝の背にそっと腕を回した。
「…ずっと、その言葉を待っていた…」
微かな身じろきに景虎もまた身を起こし、景勝を見た。
景勝を見る景虎の目尻は薄らと朱を刷き、何処と無く潤んだ瞳に景勝は溜まらずその体を再び引き寄せて口付けた。
「…っ…」
そっと離れたかと思えば再び唇を吸われる。
その繰り返しに次第に景虎の思考は蕩けていく。
ぐっと力のかけられるがままに倒れこむと、覆いかぶさる景勝を不安げに見上げた。
「かげ、かつ…」
「三郎…」
低く掠れた声にぴくりと体が震える。
「その…私は床の作法など知らぬし、経験も無いから…」
無礼を働いてしまうかもしれない、と続くはずだった言葉は景勝の声によって遮られた。
「経験が無い?」
しかし景虎には道満丸という実子がおり、腹の大きい姿も見たことのある景勝には到底信じられることではない。
景勝の訝しげな声の意味に気付いた景虎は、そっと景勝を押しやって身を起こした。
「本当に無いのだ…」
「あの夜、父上に抱かれたのではなかったのか」
すると景虎は目を丸くして首を横に振った。
「まさか!そんなはずなかろう!そもそも父上は…!」
はっとして口を閉ざす景虎に、景勝は詰め寄った。
「三郎、何を隠しておる」
「…その…父上は…」
彼にしては珍しく口篭り、視線をそわそわと行き来させている。
それでも沈黙で以って景虎を見つめていると、景虎は観念したように小さく呟いた。
「…父上も私と同じ、女子なのだ」
「………」
さすがにこれには景勝も思考が停止した。
確かに父・上杉謙信は男女を超越した所に居るような人だった。
しかしそれでも父は父であり、男だと今までずっと信じてきた。
それが、女子だったとは。
景虎が女であったとき以上の衝撃に、景勝は脳内の混乱を収めるまでに時間を要した。
「だから父上と私の間に子が出来るはずもないのだ。あの時の事は今でもよく覚えている…不可思議な体験であった…父上が毘沙門天の真言を唱えて私の額に触れた途端、まるで雷がこの身を貫いたような衝撃に襲われ私は一瞬気を遠のかせた。しかし直ぐに我に返ると父上が満足そうに微笑んでいらした」
その一瞬が永遠のように長く感じられたが、けれど謙信の部屋を出て月を見ると、訪れた時と殆ど変わらぬそこに月はあった。
「父上はそれこそが神との交わりであり、私は無事に毘沙門天の子を孕んだと聞かされたがその時は信じられなかった。しかし時が経つにつれ膨らむ腹に信じざるを得なくなったのだ」
「では本当に道満丸は…」
「人とのまぐわいを成さず生まれてきた子なのだ」
すると景勝は深いため息をついた。
信じるに値しなかったのだろうかと景虎が口を開こうとするのを留め、景勝は首を横に振った。
「ならばわしはそうとも知らず父上に嫉妬し、そなたを憎もうとすらしたのか…」
「景勝…」
「もっと早く知っておれば…」
「……」
景虎が身を寄せると肩を抱かれ、引き寄せられる。
「…我らは言葉が足りなかったのかも知れんな」
景虎はただ景勝の首筋に顔を埋め、目を閉じた。
遠回りはもう、終わりにしようと小さく囁いて。




御館の乱から六年が過ぎた。
織田は三年前に明智の謀反によって討たれ、代わって台頭してきた豊臣もまた上杉・武田・伊達による三国同盟によって退けられた。
南では今も小競り合いが耐えないようだったが、少なくともこの北方では平和が訪れている。
謙信は二年前に武田信玄が病没すると同時に関東管領職を景虎に、越後国主の座を景勝にそれぞれ継がせると自分はさっさとかすがを連れて隠居してしまった。
そして当の景虎と景勝はというと、景虎が上杉に戻ってきてから直ぐに婚約し、一月の後に正式に景虎は景勝に輿入れをしていた。
景虎派の面々は当初婚姻を利用して景勝が己の立場を復活させるつもりだと散々景虎に進言したが、しかしそれからも景勝が己が職務は己が職務、景虎の職務は景虎の職務と割って入ろうとしない姿勢や、何よりも仲睦まじい二人の姿に口を噤んだ。
二人は子宝にも恵まれ、六年経った今では道満丸の他に四人の男児を設けていた。
そして現在もまた、景虎は子を身篭っていた。

「で、何人産むつもりなんだ?」

政宗は景虎の膝の上に頭を乗せて寝そべりながらそう聞いた。
「男所帯だからな。女が生まれるまで、と思うておるよ」
膝の上の男の髪をゆるりと梳きながら景虎は答える。
その腹は今は未だ然程膨らんではいないが、そこには確かに新たな命が宿っていることを誰もが知っていた。
「そうか。なら今回は虎菊丸のsisterだな」
「男やも知れんぞ?」
しかし政宗はにやりと笑う。
「俺の勘ではコイツはladyだ。間違いねえ」
「ふふ。ならばその時はまた共に名づけを考えておくれ」
「All right,まかせておけ」
すると襖が勢い良く開かれ、暗雲背負った越後国主が現れた。
「おや景勝。如何した」
「そうだぜ。旦那は仕事で忙しかったんじゃねえのか?」
「どこぞの伊達男が人の妻に手を出しに来たと聞き申してな」
「ほーう?そういう野暮な事しやがるのはてめえらか、道満丸、玉丸」
「母上は父上の正室だ!横槍は見苦しいぞ伊達の!」
「みぐるしいぞだての!」
堂々と胸を張って言い切る道満丸と、兄の背に隠れながらも政宗を批難する玉丸に政宗はゆらりと身を起こして笑った。
「そーかそーか道満丸と玉丸はおにいさまと鬼事がしたいかァそーかそーか。捕まったヤツは頬肉が何処まで伸びるかこの俺直々に試してやる。you see?」
じり、と歩みを進める政宗と、同じ分だけ後退する道満丸と玉丸。
「Lady…」
じり、じり…
「…go!!」
掛け声と共に悲鳴を上げて駆けていく道満丸と玉丸を政宗が笑いながら追いかけていく。
そんな三人の後姿を見送って景勝はため息をついた。
「政務は良いのか?」
「誰の所為だと思っておる」
「おや、誰の所為であろうな」
くすくすと笑みを零す景虎に、景勝はもう一つため息をつきたくなった。
「下の三人は如何しておる」
景勝の言う「下の三人」とは道満丸と玉丸の弟である源桃丸、虎菊丸、大助の三人の事である。
「乳母が見ておるよ。三人揃って昼寝だ」
そう言う景虎の傍らに景勝も腰を下ろした。
玉丸が生まれる少し前辺りから打掛を着る事が多くなった景虎はこの日、白地に桃色の打掛を着ていた。
「仕立てあがったのだな。…よう似合っておる」
「そなたが選んでくれたものだからであろう」
「真っ先に見たのが伊達のというのが気に食わんがな」
あの者どうにかならんか、とため息混じりに言えば何がだと返される。
「虎菊丸を養子にやる話は既に纏まったであろう。それを何かと我が城を訪れて…奥州をそうも空けては片倉殿も胃が痛かろうて」
「それほど虎菊丸を気に入ってくれているという事であろう。良い事ではないか」
だったら人の妻の膝で寝てないで虎菊丸の隣で寝て来いと景勝は思ったが思うだけに留めた。
「明日か明後日辺りには幸村も着くだろうし、賑やかで良いことではないか」
真田も来るのか、と景勝はげんなりしたがやはりこれも思うだけに留めた。
「…体は良いのか」
「何人産んだと思うておる。悪阻ももう馴れたものよ」
景虎は微笑むと景勝の肩に寄りかかる。
「政宗殿はややは女だと申しておったぞ」
「む…そうか。女か」
景勝もまた政宗の「性別当て」の勘が外れたことがない事を知っているだけに少々期待してしまう。
そんな景勝の複雑な心境を察して景虎が笑う。
「名はみなで考えようか。のう、喜平次」
その美しい微笑みに、景勝は苦笑と共に頷いた。


そうして季節が二つ過ぎた頃、愛らしい女児が産声を上げた。
赤子は「なほ」と名付けられ、健やかかに育っている。







***
私にしては珍しく完結しました。(笑)
一応この後は小太郎編のその後と、リクエストのあった御館様編を書こうかと思ってます。



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