月如凛光



かすがは森の中を駆けていた。
その細腕にはぐったりとした謙信を抱えている。
「謙信様、謙信様、大丈夫ですから、謙信様…!」
かすがは泣きながら何度も謙信の名を呼び、それでも風の如き速さで走った。
あの時、かすがはただ呆然とそれを見ていた。
川中島での謙信と信玄の一騎打ち。
そこに割って入った豊臣軍。
火薬の弾ける音。
そして今も耳を離れない、鉛玉が謙信の体を撃つ音。
鉛玉を受けた体で、それでも信玄と共に豊臣軍を退けた謙信の体が傾いで漸くかすがは我に返った。
崩れ落ちた謙信を抱きかかえ、かすがは走った。
他の者の声など聴かず、ただ主の命を繋ぐ為だけにかすがは風を切る。
「もうすぐ隠れ家ですから…そこなら、そこなら…!」
これが上杉家を二分する争いの始まりとなる事をかすがは知らない。
例え知っていたとしてもかすがは同じ事をしただろう。
大切なのは主ただ一人であり、周囲の人間などどうでも良いのだから。



謙信が倒れてから一週間が過ぎた。
豊臣の銃弾に倒れた謙信は辛うじて命は繋ぎ止めたものの、未だ意識の戻らぬままである。
家臣たちは一見落ち着いているようにも見えるが、水面下では万が一、の思いが誰しもあるのだろう。家臣たちは徐々に二分に別れつつあった。
景虎を跡目にと考える者達と、景勝こそはと思う者達に。
景虎派は二人の義理の祖父に当たる上杉憲政や上杉定長、上杉景信を初めとした親族らを筆頭にし、景勝派は景勝の右腕である樋口与六を初めとしてもう一人の謙信の養子である上条政繁や村上国清らが纏めていた。
ピリピリとした雰囲気が漂う中、当の景虎は実城に設けられている景勝の部屋を訪れていた。
「…景勝…その…」
景勝が家臣たちの動向を持て余しているように景虎も彼らの雰囲気に戸惑っているのだろう。
それとも、それとはまた別の事だろうか。何か言いたげに視線を落としている。
「…道満丸は如何しておる」
煮え切らない景虎に変わって話題を振ると、何処か安堵したような目で景勝を見た。
「今は我が屋敷で乳母が見ておる」
道満丸とはあの日、景虎が身篭った「毘沙門天の子」である。
下腹部が膨れてきてからの景虎は自身の屋敷の奥に篭ってしまい、出産までの間一切外へと出なかった。
当然それを不審に思う者達も出たが、謙信が特別な任務を与えそれを遂行中だと言えばそれを皆信じた。
そして生まれた子は立派な男児で、道満丸と名づけられたのだった。
未だ景虎とその屋敷の女中、そして謙信と景勝以外の者はその存在を知られていない道満丸であるが、謙信はこの後どうするつもりだったのだろうか。
「最近は歩けるようになったのだ」
「そうか…」
はにかむような微笑みに、自然と景勝の表情も綻ぶ。
景勝は微笑んだり笑ったりすることが苦手だった。
しかし家臣たちには一度たりとも見せたことの無い笑みも、不思議と景虎の前では浮かべることが出来た。
「だが、この先どうすれば良いのか正直戸惑っている。父上が意識不明となれば道満丸をこの先どうされるおつもりなのかも…」
やはり景虎もその事が気になっていたのだろう。
今も男として過し、普段は美男子にしか見えない景虎も、こうして道満丸の事を話すときは不思議と母親の顔をする。
「…以前、父上は道満丸を『器』だとおっしゃっていた」
「器?」
「道満丸は毘沙門天が来臨なさるための受け皿なのだと」
謙信はどうやら本当に道満丸を毘沙門天との子供だと思っているらしい。
景勝はどうしてもそれが胡散臭く感じてしまい、今でも道満丸は謙信自身の子だと疑っている。
「…それが気に入らぬようだな」
図星だったのか景虎は気まずげに視線を逸らした。
「あの御方のお役に立てるのは嬉しい。しかし、それではまるで…」
道満丸自身の人格などどうでも良い様ではないか。
言葉にはしなかったが景勝には景虎の思いが伝わってきた。
「ならば、景虎…いや、三郎…」
「景勝?」
「わしと…」
続くはずだった言葉は近付いてくる気配に飲み込まざるを得なかった。
『景勝様、景虎様、お二人とも大広間の方へお越し下さい』
どうしていつもこう、間が悪いのだろうか。
いつだったか、その時もこうして結局この胸に秘めたるものを伝えることが出来なかった。
「行こう、景勝」
今度こそ。
この用が済んだら、その時は。




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