月如凛光



広間には家臣たちともう一人、白銀の打掛姿の女性が二人を待っていた。
謙信の実姉である仙桃院である。
何処か上機嫌な雰囲気を纏った彼女は数日前から謙信の元に居た筈だ。その仙桃院がここに居るという事は、謙信に何かあったに違いない。
二人がそれぞれ座ると、仙桃院は紅の載った唇を開いた。
「お屋形様がお目覚めになられました」
おお、と武将達の声が上がる。
それを遮るように仙桃院は首を横に振った。
「意識が戻られたのはほんの僅かな間のみ。今は再び昏睡が続いておりますが確実に回復に向かっておられましょう。お屋形様はわたくしにお伝えくださいました」
そして彼女は高らかに告げる。

「跡目は景勝にとの事にございまする」

ざわり。
謙信生還に喜ぶざわめきが一瞬にしてその色を変えた。
ある者は歓喜の声を上げ、ある者は動揺を顕わにした。
景勝は母・仙桃院がああも上機嫌である理由が分かった。
仙桃院は何かにつけて景虎を嫌っていた。
男女問わず惹き付けるその冷たいまでの美貌、生まれ持った品性溢れる所作、何より謙信の寵愛を景勝より受けていたことが気に入らないのだろう。
その景虎を追い落とす何よりもの好機なのだ。内心ではさぞや高笑いを響かせているに違いなかった。
景虎を見やると、その怜悧な相貌を青褪めさせながらも気丈に背を伸ばしていた。
景虎とて女の身で跡目を継げるとは思ってはいなかったに違いない。
しかしこの様な形で現実となるとは思ってもみなかったのだろう。
腿の上で握り締めた拳は青を通り越して白い。
景虎から視線を逸らした景勝は、ざわめく広間を後にした。
仙桃院や与六らが何かを言っていたが全てを無視して景勝は足早に自室へと戻った。
喜びなど沸いてこなかった。
ただ、景虎が哀れだった。
男として生きることを強要され、人質として寄越された挙句に自らが望んだわけではない子を産まされ、そして跡目の座からも蹴落とされた。
だからと北条に景虎の居場所はもう無い。
景虎に救いの手を差し伸べることは出来る。
しかしそれは景虎にとって侮辱と同義であるだろう。
きっと今の景虎ならばその手を跳ね除ける。
『景勝様』
暫くの間部屋の中央で胡坐をかいて黙していると、よく知った声が景勝を呼んだ。
「与六か。入れ」
『はっ』
するりと障子が開かれ、樋口与六が入ってきた。
景虎とはまた違った種類で与六もまた整った顔立ちをしている。
「広間はどうなっている」
「殿が去られて直ぐ景虎殿も去り、一旦開く事になり申した。今は直江殿と村上殿が残るのみ」
「直江殿と村上殿が?」
直江信綱と村上国清は景勝派の筆頭だったが、しかしながら彼ら個人の仲は良くない。
その二人が何故、と思っていると与六は思いもよらぬ事を告げた。
「軒猿を使って道満丸様をお連れするためにございます」
「道満丸をとな!」
何故与六が道満丸の存在を知っているのかと問いかけそうになったが、与六は謙信の酒の相手を務めることが頻繁にある。恐らくその際に聞かされたのであろう。
しかし今気にするべきことはそこではない。
「何ゆえ道満丸を」
「以前、お屋形様は道満丸はこれからの上杉に無くてはならない存在となりうるであろうとおっしゃられました。その方が跡目で無くなった景虎殿の手にある道理がございませぬ」
「しかし道満丸は景虎の子ぞ」
「景虎殿の?」
見開かれた眼に景勝は己が失態を演じたことを悟った。
恐らく謙信は道満丸の存在のみを与六に伝え、それが誰の子であるのかや景虎の本当の性別は伝えていなかったのであろう。
「しかし景虎殿にも奥方はおられぬはずですが」
「…道満丸が景虎の吾子であることは父上も認めておられる」
「ならば尚更に道満丸様を御養子になさいませ」
「だが景虎は絶対に認めぬであろう」
そのための軒猿です、と与六は笑う。
「道満丸様は今頃軒猿が連れ参っている頃。本丸は既に我らの手により守りを固めてございます。景虎殿が道満丸様の不在に気付く頃には全ての手筈が整う次第にござります」
漸く何故直江と村上が残っていたのかを察した。
恐らく広間に残っていない景勝派と呼ばれる者達も着々と準備を進めているに違いない。
「何故そのような勝手な真似をした!!」
思わずあげた怒声にも与六は怯むことは無い。
「お屋形様は殿を跡目にと申されました。ならば道満丸様を御養子になさるは当然の事」
「しかし他に方法があったはずであろう」
「正攻法で景虎殿が納得しないとおっしゃったのは殿ですぞ」
ぐっと景勝は言葉を詰まらせた。
こんな時、口下手な自分が呪わしい。
与六は既に景勝が何を返してくるか全てお見通しなのだ。
その上で話を進めている。
それが全て自分のためだとは分かっているだけに景勝は己の無力さを呪わずにはいられない。
「…出来るだけ騒ぎは起こしたくは無い」
「それは全て景虎殿如何にございます」
「わかっておる。しかし…」
景虎が素直に応じるとはやはり思えない。
景虎は女であるより先に男であり、一人の武将なのだ。
その矜持が許すとは思えない。
だが、景勝にとて譲れないものはある。
「…良かろう。だが一つだけ、条件がある」



屋敷に戻った景虎を待っていたのは乳母たちの泣き声だった。
何事かと問えば部屋で寝かしつけていたはずの道満丸が一瞬の内にその姿を消したとのことだった。
景虎にはそれが何者の仕業なのか直ぐにわかった。軒猿だ。
迂闊だった。景虎は薄い唇を噛む。
景勝の側近である樋口与六は謙信のお気に入りでもある。
その謙信が与六に道満丸のことを話していたとしても不思議ではない。
「道満丸…!」
景虎は降りたばかりの馬に再び跨ると、来た道を駆け戻って行く。
あっという間に見えてきた本丸の城門。
既にそこには門番の兵以外に一人の男が待ち受けていた。
「樋口殿!!」
「血相を変えて如何なされた景虎殿」
「道満丸を返していただこう!」
すると与六は心外とばかりに肩を竦めた。
「道満丸様は最早我が殿の息子も同然。お返しいたす道理が見当たりませぬ」
「お屋形様が御倒れになっている今、何ゆえこの様な騒ぎを起こすのか!」
「騒ぎとはこれ心外。跡目は我が殿との事ゆえ当然の事をしたまで。騒いでおられるのは景虎殿の方ではござりませぬか」
「何だと?!…ええい貴様では話にはならん!景勝に直接聞くまでよ!門を開けい!」
しかし門兵は城門を開けようとはせず、景虎に向かって弓を構えた。
「何のつもりだ!」
「今は大事な時期にございます。登城はご遠慮くだされ」
「くっ…」
でなければ撃つ、と言外に滲ませたそれに景虎は手綱をきつく握り締める。
「そうそう。我が殿はこうおっしゃられておりました」
用は済んだとばかりに景虎に背を向け、与六は告げる。
「万一の事となったとしても、景虎殿の命だけは助けるように、と」
良かったですね、我が殿のお心が広くて。
そう言い残して与六は城門の向こう側へと消えた。
残された景虎は引き千切らんばかりに手綱を握り締める。
ひどい侮辱だ。
男として生きようとしている景虎を知っていて、そのような女子にかけるような情けなど。
「…それが答えか景勝…!」
所詮お前も私を対等には見てはいなかったという事か…!
「許すまじ景勝…!許さぬぞ、景勝ーーーー!!!!!」




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