月如凛光



景勝に会うことすら拒まれた景虎は再び自らの屋敷へと戻ると神田右衛門ら近習を引き連れて春日山城を後にした。
そして上杉憲政の居城である御館に入り、春日山の景勝と対峙した。
しかし圧倒的大群で押し寄せてきた景勝軍、そして上杉憲政の裏切りにより城はあえなく落城し、景虎は小田原への逃亡を余儀なくされた。
しかしその道中で立ち寄った鮫ヶ尾城でも景虎派であった城主・堀江宗親の謀反にあい、二の丸に火を放たれた。
迫り来る火の手と軍勢。
次々と落命し、または寝返ってゆく景虎派の武将達。
最早これまでか。
景虎は最後まで己に付いて来てくれた者たちに礼を述べると一人本丸の最奥で刀を抜いた。
物心ついた頃には寺に預けられ、俗世に戻らされたかと思えば男として甲斐へ向かい武田信玄の養子となった。
しかし同盟が破棄されると同時に再び寺に戻され、かと思えば今度は北条幻庵の養子となり、それから半年足らずで越後へと寄越された。
小田原を出る前夜、実兄である氏邦は余りにも不憫だと泣いた。
しかし不思議と父・氏康や兄・氏政を恨む気持ちにはなれなかった。
父を恨むほど関わりがあったわけではなかったし、氏政もまた厳しい人ではあったがそれと同時に息子以上に年の離れた自分を慈しんでくれた人だった。
兄達は年の離れた自分をこぞって可愛がってくれたし、信玄や幻庵もまた本当に良くしてくれた。
そして。
(父上…)
謙信は今どうしているのだろうか。
あれから二ヶ月が過ぎていた。
生きているのかも死んでいるのかも分からぬままだった。
せめて忍びがいれば。
上杉の忍びは普段は謙信に仕えてはいるが主家は直江家だ。
その主である直江信綱が景勝側の筆頭の一人である限り、軒猿は厄介な敵でしかない。
(…忍び、か…)
忍びと聞いて浮かぶのは軒猿だけではない。
景虎にとって、忘れることの出来ぬ存在。
北条三郎を名乗っていた時代、兄のように慕った忍びがいた。
せめて彼がここに居てくれたらまた状況は違っていただろうか。
(考えても詮無き事よの…)
もう止めよう。景虎は首を横に振った。
火の手はもうこの部屋まで伸ばされている。
いつまでも還れぬ想いに耽っている訳には行かない。
鎧を外し、前を寛げる。
さらしよりもっと下、腹部の左側に剣の切っ先を当てた。
「これで満足か、景勝」
いつも何か言いたげにしていた景勝。
それは己が望んでいたような事ではなかったのだろう。
「道満丸…!」
せめて道満丸がこの父であり母である己を覚えていないといい。
景勝を憎んで一生を生きるような事にならなければいい。
どうか、お前だけは幸せに。
「さらばだ…!」

「ちょーっと待ったァ!!」

まさに今その切っ先を腹に食い込ませようとした時、大きく開いた窓から一つの影が飛び込んできた。続いてもう一人。
「何奴!」
咄嗟に手にしていた刀を侵入者に向かって構える。
彼らの動きはどう見ても忍びのものだったが、しかし先に入ってきた男は迷彩柄の服に明るい髪をしており、後から入ってきた男は赤地に白の唐草模様という何とも派手な出で立ちであった。
「あんたが上杉景虎公?…ってアレ?女?」
胸元のさらしに目をやった迷彩柄の忍びが目を丸くする。
「如何にも我が名は上杉景虎。性別の差など瑣末事よ。それより、何用だ」
いや、大した問題だと思うんだけど。
迷彩柄の忍びは少し困ったように頬を掻いた。
「ま、いいか。ともかく、あんたに自害されちゃ困るんだよね」
「何…?」
すると今度は唐草模様の忍びが膝を付き、景虎に申し出た。
「景虎公、我らは武田が家臣・真田家に仕える者。今は我らと共に落ち延び下さい」
「真田…弁丸の…」
「はい。無事落ち延びた暁には主と大殿が力になりましょう。早まっては成りませぬ」
「まだ、道は閉ざされてはいないと申すか……」
景虎は瞑目した後、わかった、と小さく頷いた。
「どうせここで終わる筈の命。生き恥を曝すのも良かろう」
「よっし。話が纏まった所でさっさと行こうかね」
促されるままに景虎も窓から屋根瓦の上へと移ると、唐草模様の忍びに腰を引き寄せられる。
「大凧で参ります。動かぬよう」
そうして、三つの影は夜空へと飛び去っていった。




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