月如凛光





――さぶろうあに、かえってしまうのですか?

愛らしい声が泣き色を湛えて縋ってくる。

――さぶろうあに、いってしまってはいやです…

ああ、そんなに泣いてはいけないよ。
お前の可愛い瞳が溶けてしまう。
短い間だったけれど、兄となれたこと、誇りに思う。
可愛い弁丸。
もう会うことは無いかもしれない。
会うときは戦場かもしれない。
それでもお前と過した日々は生涯忘れる事は無いだろう。
可愛い弁丸。愛しい弁丸。
…さよならだ。




覚醒は突然だった。
「…っ…」
咄嗟に身を起こそうとして全身を走った痛みに景虎は再び布団の上に落ちる。
それでも何とか身を起こして景虎は辺りを見回した。
差し込む光の加減は今が午後だと教えてくれる。
ここはどこだろうか。
そこまで考えて漸く景虎は今までの事を思い出した。
そうだ、自分はあの時自害しようとしたのを止められて、奇妙な格好をした忍びと共に鮫ヶ尾城を飛び立ったのだった。
しかし戦で疲弊した身は燃え上がる鮫ヶ尾城が見えなくなると同時にその意識を手放した。
ならばここは武田領なのだろうか。
すると部屋の外で派手な足音が聞こえてきた。
どうやらこの部屋を目指しているらしい。
と思うと同時にすっぱーんと襖が開かれた。
「三郎兄!!!」
現れたのは、全身を赤の衣で揃え、首からは六文銭を下げた若者だった。
景虎の脳裏に先ほどの夢が甦る。
「べ」
「目が覚めたのですね三郎兄ぃぃ!!!!」
顔一杯に喜色を浮かべた若者が室内に駆け込んでくる。が。
「はーいはいはい、そこまでね」
その背後から音も無く現れた迷彩服の忍びに引き止められてつんのめっていた。
「何をする佐助!!」
「旦那、景虎公は怪我してるんだから飛びついちゃ危険っしょ」
「むっ。それもそうだったな」
若者は改めて景虎の傍らに座ると頭を下げた。
「御久しぶりにございます、さぶ…景虎公」
「弁丸、か?」
幼名を呼ぶと、彼はぱっと嬉しそうな顔をして大きく頷いた。
「如何にも!今は真田源次郎幸村を名乗っており申す」
「そなたの戦ぶり、越後にも轟いておったぞ」
「さ、景虎公にそう言って頂けるとはありがたき幸せ!」
畏まった物言いをする幸村に景虎はふと微笑んだ。
「そう畏まらなくとも良い。私はそなたに助けてもらった身。好きに呼ぶがよい」
「!ならば今再び三郎兄と呼んでもいいですか!」
「身に余る光栄だ」
すると幸村は感極まった様に「さ」の形で口を開いたまま震える。
「さ、ぶろうあ」
「はいはいはい。だーかーらー」
飛びつこうとしたのを再び忍びに襟首を掴まれて止められた幸村ははっとして頭を下げた。
「すまぬ三郎兄っ、ついっ…」
「可愛いそなたのすることだ。構わぬよ。…佐助と言ったか」
幸村の襟首を掴んだままの忍びに声をかけると、ども、と彼は片手を上げた。
「真田に仕える『佐助』となると貴殿は猿飛殿か?」
「おっ。俺も有名になっちゃった?そっ。俺様は猿飛佐助。ちなみに公を運んだのは霧隠才蔵ってヤツね」
「そうか。霧隠殿にも礼を言っておいてくれ」
「忍びは命令に従うまで。礼は真田の旦那とウチの大将に言ってくれよ」
「しかしそなたらの働きあってこそのこの命。礼を言う」
すると佐助は「何か調子狂うなあこの人」と頬を掻いた。




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