月如凛光



1.越後に帰る




春日山城は今や景虎派の者達が殆どを取り纏めていた。
景虎の帰還に快哉を叫ぶ者、気まずげに視線を逸らす者、様々であったが景虎は今度こそ、堂々と本丸の城門を潜った。
景虎が何より最優先したのは道満丸の事であった。
何せ城門を潜ったあたりから道満丸の泣き声が響いてきており、景虎は気が気でなかったのだ。
抱き上げると途端に泣き止んで笑顔を見せた道満丸に、さすが親御様と乳母は手を叩いた。
そのまま離れようとしない道満丸に困った乳母を押し留め、景虎は道満丸を連れて大広間へと向かった。
そこには当然、景勝の姿もあったが景虎は目を合わせようとはしなかった。
この短い乱で失われた命はお互い決して少なくは無い。
景虎は景勝派の暴走を一切責めることはしなかったが、許しの言葉も与えなかった。
それと同時に景虎は甲斐・相模との三国同盟を結んだ事を公表した。
謙信からの手紙を貰った翌日、景虎は信玄に目通りし、そして北条にも早馬を走らせたのだ。
伊達や織田が勢いづいている昨今、この同盟は重要だと説き伏せたのだった。
「特に織田は近いうちに攻めてくるであろう。皆のもの、これからの働きに期待する」
そう言い放った景虎に、一同は頭を垂れた。
それは景勝もまた同じであった。




「すまぬ」
景虎の部屋を訪れた景勝は開口一番そう言って頭を下げた。
しかし景虎の景勝を見る目は冷たい。
「もうよい。過ぎた事を言うても仕様の無い事」
「しかし」
「くどい。それより、そなたにも紹介しておきたい者がおる」
これへ、と景虎が何処へともなしに呟くと、その背後に音も無く一人の男が現れた。
「名前は知っておろう。風魔小太郎と申す忍びだ」
「風魔…あの伝説の。しかし風魔は北条に仕えているのではなかったのか」
「お借りしたのだ。小太郎には道満丸の警護を勤めてもらう」
「だが我が上杉には軒猿がおろう」
「軒猿は信用できぬ」
ぴしゃりと景虎が言い放つ。
「例え主の命令であろうと一度でも我が元から道満丸を攫った者に道満丸を任せる気にはなれぬ。しかも乱で死んだ直江信綱の後釜が与六だと?与六の忍びなど尚更近寄らせる気は無い」
道満丸誘拐は景虎に深い傷を残しているようだった。吐き捨てるように言うその姿に景勝は己の罪の重さを思い知らされる。
それにしても景虎の背後に控える男は不気味だった。
顔の殆どを覆っている為もあり全く表情が窺えない上に気配が全く感じられない。
軒猿とはまた違った気配の消し方に、一層異質さを感じさせた。
「私がそなたに話すべきことはもう無い。出て行ってはくれぬか」
「景虎、わしは…!」
「もうよいと言っておろう!」
強く睨むその眼差しにあの頃の柔らかな色など一片も見当たらない。
浮かぶのは強い批難と拒絶のみ。
お前の話などもう聞きたくは無い。
その眼はそう如実に語っており、景勝はこれ以上言葉を重ねることはただ二人の溝を広げるだけだと知った。
「…分かった」
肩を落として出て行く景勝を見送り、その気配が遠ざかっていくと漸く景虎は肩の力を抜いた。
「…すまない小太郎。見苦しい所を見せた」
「……」
小太郎は何も言わないが、しかし景虎には彼が何を伝えたがっているのかが手に取るようにわかる。
それは彼とであった頃から変わらない。
「…ありがとう」
小太郎と出会ったのは、まだ幻庵の養子として小田原にいた頃だった。
その頃の彼はまだ伝説とは呼ばれてはいなかったものの、それでも非凡な才を持って小田原を警護する忍びの一人として景虎と出会った。
それから越後へ寄越されるまでの短い間の出会いは景虎のそれからの生き方に強く影響を与えた。
「今もまだ、苦無なら扱えるぞ」
「……」
「ふふ、そうだな。また教えてくれ」
「……」
「ああ。くれぐれも道満丸を頼む」
「……」
すっと音も無くその姿を消した小太郎を見送り、景虎は静かに目を閉じた。
浮かぶのは景勝の事。
仙桃院に踊らされたのはこちらも同じこと。責めはしない。
しかし、許すことは当分出来そうに無かった。










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小太郎エンドという名の景勝バッドエンドでした。(笑)
小太郎との細かい話はまた番外編として書きたいと思います。



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