月如凛光



2.このまま甲斐に残る。




もう暫く好意に甘えても良いだろうか。
謙信からの手紙を受け取った翌日、景虎は畏まってそう言った。
手紙に何が書いてあったのかは景虎以外は知らない。
帰って来いとあったのか、好きにしろとあったのか。
しかし景虎の滞在を喜ばしく(例えそうなった原因が何であれ)思っていた幸村は、是非も無くそれを快諾した。
正直な所、景虎とて帰りたくないわけではない。
しかし、事態が好転したからと気軽に帰れる気分でもない。
ただ謙信は養生、景虎は甲斐、景勝は謹慎という状態では春日山は機能しなくなってしまう。
景虎は謙信が政務に携われるようになるまでは景勝の謹慎を解いてもらうよう文を預けた。
道満丸は今どうしているだろうか。そればかりが頭を過ぎる。
「三郎兄!」
縁側でぼんやりしていると幸村が駆けて来た。
「幸村か。如何した」
「はい!団子を買ってまいりました!三郎兄は団子はお好きですか?」
「おお、昔はよう食べたものだ」
犬っころのように懐く幸村に景虎は笑みを隠せない。
「ならばお茶にしましょうぞ!今日は天気も良い。茶を運ばせまする!」
「ありがたく頂戴するとしよう」
あれから二月が過ぎていた。
景虎の傷も大分癒え、日常生活に支障をきたすことは殆ど無くなっていた。
けれど鍛えることを止めてしまった体は傷の治りと共に筋肉を落とし、柔らかな女の曲線を得ようとしている。
このまま在るがままの姿に戻る道もあるのだと、どこからか声が聞こえる。
このまま男して生きて何になる。
この身は既に子を産み、女として生きようとしている。
それを意地のみで再び男に戻すことは本当に正しいのだろうか。
道満丸はこの先言葉を覚えていくだろう。
その時自分は自分をなんと呼ばせるつもりだろう。
母と?それとも父と?
右衛門の言うとおり近習らが景虎を女性と知っているのならこれ以上隠すことは無いのではないか。
「三郎兄?」
「…私は男と女、どちらで生きねばならぬのだろう」
思わず口にすると、幸村はきょとんとして言った。
「三郎兄は三郎兄です。俺は三郎兄が男だからとか女子だからとか関係なく三郎兄が好きです。だから三郎兄が三郎兄であるならどちらでも良いと思います」
茶を運んできた佐助が「旦那、それ答えになってない」と内心で突っ込みを入れたが、しかし景虎にはそれで十分だったらしい。景虎はくすくすと笑って幸村の頭を撫でた。
「幸村は愛いのう」
「さ、さぶろうあにっ」
本当は願ってはいけないのだろうけれど。
こんな日が続けばいいと。
「さて、茶も来た事だ。頂こう」
「はい!」
そう願ってしまうのは、逃避なのだろうか。




その頃、景勝の苛立ちは頂点を極めようとしていた。
甲斐にいる景虎に文を送れば妨害され、ならばと軒猿に様子を探らせればそれもまたあちらの忍びに阻まれる。
全く景虎の様子が分からない状態だった。
この身の謹慎が解けたのは景虎の計らいだという事は謙信から聞いていたが、しかしそれ以降全くの音沙汰も無く、景勝はただ乱の後始末に追われていた。
そして今回もまた、軒猿は真田の忍びに阻まれて目的を達することが出来なかったのである。
「兼続」
「はっ」
兼続と呼ばれたのはつい最近まで樋口与六を名乗っていた男であった。
先達ての乱で軒猿を纏める直江家の当主である直江信綱が戦死した。そして直江家断絶を免れるために与六が未亡人となったお船に婿入りし、与六は直江兼続と名乗ることとなったのだった。
「飛加藤はどうしておる」
飛加藤とは軒猿の頭目であり、加藤段蔵という。
今は別任務で越後を離れているが、時期に戻るだろう。
そう告げると景勝は小さく頷いた。
「ならば戻り次第」
「心得ております」
兼続は一礼するとその場を辞した。
一人残された部屋で景勝は深いため息をつく。
あれから何度悔いたか分からない。
母・仙桃院の謀略に踊らされ、乱までも引き起こしてしまった。
せめてあの時。兼続が道満丸を攫ってきた時に強引にでも止めるべきだった。
道満丸を返し、二人で話し合えばもしかしたらもっと違う道が開けていたのかもしれない。
けれど今ではもう取り返しの付かない事になってしまった。
己が身に降りかかった処断を悔やんでいるわけではない。
ただ景虎の事が気がかりだった。
景虎の事だ。己の意志で帰ってこないにしても道満丸の事は頓に気にかけているはずだ。
せめて謝罪し、道満丸の日々の事だけでも伝えたいだけであるというのにそれも間々ならない。
(飛加藤さえ戻れば…)
段蔵の一刻も早い帰還を願わずにはいられなかった。




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