僕にできる愛



「国光」
 名を呼ばれ、咄嗟に部室内に自分達以外がいないか視線を巡らせてしまう。だが、自分とリョーマ以外は見当たらない。
 明日の部活の事を考えながら着替えている内に、他の部員はとうに帰ってしまったらしい。
「何だ」
 視線をリョーマへと向ける事無く学ランのボタンを留めながらそう返すと、彼はそれ以上は何も言わずにただじっと手塚を見つめていた。
「どうかしたのか?」
 首元のホックもきっちりと留め、ユニフォームを畳みながらもう一度問うと、彼は漸く言葉を紡いだ。
「別れたいんだけど」
 ぴたりと手塚の手が止まる。彼を良く知らぬ人から見れば変わらぬ仏頂面だが、リョーマから見れば彼は明らかに表情を強張らせていた。
「……理由は、聞いて良いのか?」
「駄目」
 即答され、手塚は小さく嘆息するとリョーマと向き合う。彼の子猫のような瞳は何も語ろうとはしなかった。
「わかった」
 手塚がそう言うと、リョーマは視線を床へ落し、その桜色の唇をきゅっと噛んだ。
「……先、失礼します」
 ぺこりとお辞儀をして彼は自分のバッグを掴むと足早に部室を出ていった。
「………」
 その後姿を見送った手塚は、暫くの間、彼の消えた扉をじっと見ていた。
 ふっと体の重心を後ろへ倒し、ロッカーに凭れ掛かった。そしてゆっくりと俯いて瞼を閉じ、片手を額に当てる。
「……っリョーマ……」
 押し殺した声で去った恋人の名を呼ぶ。何故、と問いたかった。あの細い肩を掴み、どうしてだと、感情をぶつけたかった。
 だが、そんな事をして何になる。
 彼の瞳にあったのは、別離への決意。
 それを知ってしまったのに、そんな真似が出来るものか。
「……っ……」
 きりっと唇を噛み締めて姿勢を正すと、吹っ切るように黙々とユニフォームをバッグへと詰め込んだ。





「それでさ、そのドラマがすっげえ泣けたんだって!」
 その翌日の放課後、テニス部員はいつもの様に練習を始めていた。そんな中、菊丸の興奮した声がコートに響く。
「ええー!?俺もそっち見れば良かったッスー!」
 話を聞いていた桃城が悔しそうに声を上げる。どうやら昨晩のテレビの話らしい。
「エージ先輩、ビデオ撮って無いっすか?!」
「へっへーん、撮ってな……」
「?どうしたんスか」
 突然言葉を止めて固まった菊丸に、桃城は視線を追って振り返り、同じく固まった。
「やっべ!部長に見つかった!」
 委員会が終わり、部活にやって来た手塚とマトモに目が合ったのだ。当然声も聞えていたのだろう。手塚のキツイ視線が二人を突き刺す。
「菊丸、桃城、グラウンド二十周」
 静かに言い放たれ、二人は慌てて走りに行く。
「なんか今日、部長機嫌悪いッスね」
「なーんだろね〜?」
 二人は走りながら大石の元へ向かう手塚へちらちらと視線を送り、様子を窺う。大石と話し合っている姿は普段通りだが、やはり何かがおかしい。
 いつもだと、私語程度なら十周で済む。なのに二十周という事は確実に機嫌が悪い。
「こーゆー時は、アレっきゃないっしょ。不二周助様にお願い」
 菊丸の提案に桃城は同意する。幾ら機嫌が悪かろうが何だろうが不二に掛かればお手の物。原因を引き出せる筈だ。
「んじゃ、早速部活終わったら当たってみますか」





「手塚、ちょっと良いかな」
 部活終了後、菊丸達が声をかける前に不二は手塚を呼び止めていた。やはり不二も気付いていたらしい。
「……」
 手塚はぴくりと眉根を寄せたが無言で頷いて承諾した。



「それで?どうしたわけ?」
 他の部員達が帰り、部室に残った手塚と不二。暫くの間お互い無言だったが、切り出したのはやはり不二だった。
「何の事だ」
「惚けないでよ。今日、ずっと機嫌悪いじゃない」
「………」
 手塚は大きく溜息を吐くと、長椅子に腰掛けた。
「越前君の事?」
 手塚は何も言わず、脚と腕を組んで壁に凭れ掛かる。それを肯定と取った不二は先程の手塚以上に大きな溜息を吐いた。
「……越前とは別れた」
 手塚の言葉に不二は目を軽く見開いた。越前も今日はずっと手塚を見ようとしなかったから喧嘩でもしたのだろうと思っていたが、事態は予想以上だったようだ。
「……理由は?」
 その言葉に手塚は頭を軽く左右に振る。
「言いたくないそうだ」
「何それ」
 不二の言葉が僅かに怒気を帯びる。
「それで、まさかあっさり頷いたんじゃないだろうね」
 その言葉にも手塚は何も答えない。
 彼が何も答えないのはそれが真実であると同意義だ。
「全くもう……」
 不二は呆れて大きく息を吐く。
「じゃ、質問を変えるけど、別れる理由、心当たりは?」
 その質問に、手塚は躊躇するような素振りを見せた。
「あるんだね?」
「………」
 また黙り込む手塚。だが、無言で不二が怒気を撒き散らすと仕方ないと言ったように口を開いた。
「先週、越前が家に泊りに来たんだが、その時に……」
「その時に?」
「……拒まれた。怖がらせてしまった」
『『なにぃっ?!』』
 扉の向こうで叫ぶ声が二種。
「………」
 不二はにこやかな笑みを唇に掃くと、扉へ近寄りがちゃりと開ける。
「……二人とも、何してるのかな?」
 扉の前で座り込んでいた菊丸と桃城に極上極寒の笑みを向けると、二人は引き攣った笑いを洩らした。
「て、手塚部長の不機嫌が気になって……」
「にゃ、にゃぁ〜……」
「へえ…心配で心配でつい盗み聴き?…って手塚!」
 話は終わりだと言わんばかりに荷物を纏める手塚に不二の声が突き刺さる。
「今日の事は無自覚だった。すまなかった」
 そう淡々と告げると荷物を持ち、三人の側を通り抜けて部屋を出て行こうとする。
「手塚、待って」
 だが不二が手塚を逃す筈もなく、その腕を取ると全ての感情を閉ざした手塚の視線を見つめる。
「本当にさっきのが理由だと思ってる?」
「それ以外思い当たらない」
「なら、越前君自身に何かあったのかもしれない。あの子は自分を隠すのが巧いんだから」
 良く言うでしょ?諦めるのはまだ早いってね。
 不二は少しおどけたようにそう言った。
「………すまない」
 ほんの僅か口角を持ち上げ、そう言うと手塚は部室を後にした。
「……ホント、手が焼けるんだから」
 誰かが背中を押してやらないと動かない野暮天な朴念仁。
 方や自分の気持ちは全て自分で処理しようとする背伸びっ子。
 二人とも好きだから、せめて自分は橋渡し役。第一じれったくて見てられない。
「さて」
 不二は苦笑すると、どさくさに紛れて逃げようとしていた菊丸と桃城に声をかける。
「二人とも、喉乾いてるよね?ずっと外で盗み聴きしてたんだから」
 盗み聴きと喉の渇きは関係ないと言いたかったが、拒否権の無い二人は引き攣った薄笑いと共に何度も頷いた。
 すると、それは良かったと微笑みながら不二は自分のバッグから水筒と紙コップを取り出し、一つずつ二人に渡す。
「乾に貰った特製野菜汁があるんだ。たっぷり飲んでよ」
「「げっ!!」」
 注がれる草色のそれに二人の顔が引き攣る。二人とも飲むのは初めてだったがどれほどの威力かは海堂たちで実証済みである。
「さあ、どんどん飲みなよ」
 にこやかに微笑む死神に促され、二人は遠い世界へと飛び立って行ったのだった。





「……なんスか」
 越前宅へやって来た手塚を迎えたのはリョーマの気まずそうな視線だった。
「少し、話がしたい」
「……どうぞ」
 暫くの沈黙の後、扉が大きく開かれて中へと促された。



「……昨日の事だが」
 部屋へ通され、リョーマの向かいに座った手塚は一つ一つ言葉を選びながら問い掛けた。
「お前は理由を聞くなと言った。俺も問い詰めなかった。だが、やはり納得が行かない」
「………」
「せめて理由だけは教えてくれ」
 リョーマは無言で床を見ている。その視線は時折右を見たり左を見たりとしていて、彼がどう言おうか迷っているのがわかった。
 それとも、しつこいと、諦めが悪いと思われているのだろうか。
 それでも、この少年を易々とは手放したくないのだ。
 だが、もうこの少年の想いが無くなってしまったのなら仕方ないだろう。ならば、せめて自分を納得させるための材料が欲しい。
 このままでは、きっといつまでもリョーマを追ってしまうだろうから。
「……この前、お前が泊りに来た時の事か?」
 沈黙を続けるリョーマに手塚が問い掛けると、リョーマははっきりと分かるほどびくりと肩を揺らした。
 その反応に、やはり原因はこの事なのだろうと手塚は思う。
「………」
「……そうか」
 視線を逸らし、俯くリョーマの反応を肯定と取った手塚は小さな溜息を吐いた。
「お前を怖がらせ、泣かせてしまったのだから嫌われて当然だな」
 自嘲気味に小さく笑うと、リョーマは強く頭を左右に振った。
「ち、がう…違うっ…」
「越前……?」
 名前ではなく、越前と呼ばれた事が哀しくて、沸き上がる鳴咽に言葉を奪われそうに鳴る。
「国光は悪くないっ…」
 リョーマは自分のシャツを胸元でぎゅっと握り締め、その表情を隠すように顔を俯ける。
「オレ、アメリカにいた頃、襲われそうになった事があって、それ、思い出しちゃって、怖くなってっ…」
「越前……」
 シャツを握る手が震えてるのに気付いた手塚はそっとリョーマの頬に手を添える。すると、リョーマはそれに誘われるように手塚へとしがみ付いた。
「国光に触れられて、凄く嬉しかったっ…でも、一瞬でもあんな奴等と一緒にした自分が許せなくて、情けなくてっ……」
 軽蔑されたくなくて。
 知られたくなかった。
 だから、逃げたのだ。
「ホントは、他に好きな人が出来たって言うつもりだったっ…国光は優しいから、きっとそう言えば諦めてくれるって、思って……」
 でも、言えなかった。
 言いたくなかった。
「でも、オレっ……」
 こんなに優しいのに。
 こんなに大切にしてくれるのに。
「オレっ…国光以外の人が好きだなんて言いたくないっ……」
 こんなにも、好きなのに。
「……リョーマ……」
 手塚は泣きじゃくるリョーマをあやすように抱き、背中を軽く叩いてやる。
「お前はなんでも自分で解決し過ぎる。別に俺は今すぐお前を抱きたいわけじゃないし、向こう(アメリカ)での事だって、その傷を癒してやろうと思いこそすれ、軽蔑しようなどとは微塵にも思ってはいない」
「……別れたいなんて、嘘ついてごめんなさい」
 手塚の首筋に顔を埋めたリョーマが小さく呟く。始めてみる殊勝な態度のリョーマに、手塚はつい小さく笑ってしまった。
「俺達には時間は無限に有る。ゆっくりで良いんだ」
「うん……」
 リョーマの顔を上げ、手塚はその頬に走る涙の痕をそっと唇で拭ってやる。
 すると、擽ったそうにリョーマは笑い、手塚の唇に軽く口付ける。
「オレを手塚国光でいっぱいにしてよ」
 そしたら、怖くないから。
 もっと、強くなれるから。
「言われなくとも、そうするつもりだ」
 そう言うと、手塚はこの少年以外、誰も見た事の無い優しい笑みを浮かべた。





「あれ?先輩方、どうしたんすか?」
 翌日、何事も無かったようなしれっとした表情で朝部活に出てきたリョーマは怪訝そうにそう言った。
「ちょっと、ね……」
「花畑を見に行って来たんだよ……」
「はあ?」
 なんだかやつれたような風体の菊丸と桃城。言う事もリョーマにとってはさっぱりで、首を傾げるばかりである。
「おはよう、越前」
 二人の背後から掛かった声に菊丸と桃城はびくっとして凍り付く。
「あ、不二先輩、はよッス」
 リョーマは軽く会釈をすると、凍り付いた二人を見て再び首を傾げた。
「さっきから何なんすか、二人とも」
「きっと拾い食いでもしたんじゃない?」
「ふーん?意地汚いっすね」
 違うんだ越前(おチビちゃん)!!
 そう叫びたいが不二の視線が怖くて何も言えない二人だった。
「あ」
 すると、すぐ側のフェンスドアから手塚がコートへと入って来た。
「おはよう、手塚」
 不二が笑顔と共にそう言うと、手塚は軽く頷いただけで輪になっている四人を一瞥した。
「何をしている。さっさとアップを始めないか」
「はいはい」
「了解了解っと」
「うっす」
 各々がグラウンドを走りに行くと、一人だけその場に残った。
「越前、どうした」
「……」
 リョーマは手塚に駆け寄ると、ぐっと背伸びをしてちょんっと口付けた。
「?!」
 突然の事に固まった手塚に、リョーマはにっと笑った。
「十周?」
 その小生意気な笑みに、手塚は溜息を吐く。
「二十周だ」
「了解」
 茶化すようにそう言うと、リョーマは愛用の帽子を被り直して走り出した。

 余談だが、それを目撃してしまった不二が開眼し、すぐ近くを走っていた菊丸と桃城は吹き荒れるブリザードに生きた心地がしなかったらしい。





(終)
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すんません、部長もリョーマも別人っすね…。ホントは徳川さんネタだったんだけど、俺、その辺りのジャンプ、ぱぱぱーっとテニプリは半無視してたから良く覚えて無いんすよ。だから却下。これがいけなかった。どんどん話しがへぼくなって行く原因に。
そして何故だか良い人な不二。菊丸、桃城の二人にはごめんなさい。(笑)
今回のタイトル、本当はリョーマの事を示していました。が、「良く考えたらリョーマの一人称って「オレ」だったなーまいっかー」とか思いつつ書いてたらどんどん不二が出張る出張る。そしてここの不二、手塚部長とリョーマの二人ともが好きです。どっちも好きなので仕方ないから応援してあげるかーって感じ。でもどっちかってぇとリョーマの方が好きっぽい。なので目の前でいちゃつかれるとくわっっと開眼。(笑)そしてこのタイトルは不二の事になりました。(笑)
さて次は海堂だ!(笑)
(2001/08/10/高槻桂)

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