大きな足跡を辿る小さな足跡



少年の父が海に消え、どれくらい経っただろうか。
一日、一ヶ月。少なくとも一年は経っていないだろう。
少年の母は毎日出掛けていった。
最愛の夫を捜す為に。

残された少年はと言えば、毎朝一日分纏めて用意される食事を眺め、そのほんの少しだけを自らの内へと落す。
そしていつもの様に学校へ行き、少年を言葉の刃で傷付ける事を楽しむ同窓生にくってかかる。

父はこのザナルカンドでは有名人だった。
代表的スポーツであるブリッツボール。
少年の父は、それの誰よりも強い選手だった。
それは即ち、ザナルカンドの英雄と例えても過言ではない。
誰もが憧れ、一目会いたいと、あんなプレイヤーになりたいと渇望する。

そして、その彼の息子は、嫉妬の対象になり易い。

今日もその色は如実に表れており、少年は幾つもの言葉のナイフに切り刻まれていた。
父とは違う髪の色や、少年の父とは似つかわしくない涙腺の弱さ。
周りの子供たちは彼の父と彼自身の、当たり前に起こるような些細な違いをさも悪い事の様な物言いをし、少年を傷付けた。
けれども少年は、それを子供特有の高い声を張り上げて否定し、父をも否定する。
それが更に子供たちの怒りに障ると分かっていて尚、少年は声を張り上げる。
少年にとって父は英雄でもなく、母を自分から奪っていく、ただの男だった。
それを上辺だけでも称えるなんて、いなくなった事を哀しむなんて、絶対にしたくはなかった。

今日も少年は心に傷を負いながら帰路に就く。
だが、その足取りは重い。
自分の帰りを迎えてくれる者がいない事を、少年は知っていた。
きっと今頃母は捜索船の上で、必死に夫の姿を捜し求めているのだろう。
我が子の事など頭の片隅にも無く、あるのはただ愛する夫の姿だけで。
彼女が我が子の事を思い出すのは、今日も見つからなかったと失意と共に船から降り、帰路に就きながら我が家に明かりが点いているのを見つけた時。
その一点のみだった。
毎朝、朝昼晩の食事を用意する時も、彼女の脳裏に浮かぶのは夫の姿で、その手は惰性に料理を作っているだけだ。
少年を産んだのも、夫が子供が欲しいと言った事が切っ掛けだった。
彼女にとって世界は夫を中心に廻っており、夫さえいればそれで良かったのだから。
だが、だからと我が子への愛が無いわけではなかった。
我が身を削り、腹を痛めて産んだ子だ。無論可愛くない筈も無く、愛情だってある。
ただ、彼女にとって余りにも夫への想いが大きく、二の次になっているだけで。
「・・・・・・・・・」
少年は足元に落していた視線を上げ、夕日で赤く染まった海原を見詰める。
この海の何処かに、父はいるのだろうか。
それとも、別の場所で楽しくやっているのだろうか。
妻が、彼のファンがどれほど心配し、息子がどれほど傷付けられているかも知らないで。
そう思うと、一層父親への嫌悪感が強まった。
少年は涙で濡れ、腫れぼったくなった瞼を再び伏せ、歩いていく。
その足先は自宅へとは向かっていなかった。
アスファルトを渡っていたその足は、やがて新しい港が出来てからは使われなくなって久しい港跡へと辿り着いた。
ここが少年のお気に入りの場所だった。
そして、彼が知る事はなかったが、彼の父もまた、この場所を好んでいた。
桟橋に腰掛け、脚を海に浸す。
楽しいというわけでもなかったが、海に浸った脚を前後させ、ぱしゃぱしゃと跳ねる海水を眺める。
辺りはもう薄暗い。
遠くからは街のざわめきが聞えてくる。
沈む太陽と反比例するように増える街の明かり。
少年のいる港にも、少なめとは言え、何本かは残っているライトに明かりが点る。
少年はそれらの全てから視線を逸らし、暗くなった足元の海を眺め続けていた。
「……ぃいえゆいー…のぉぼぉめえのぉー・・・・・」
ぽそりと漏れたのは、決して上手いとは言えない歌。
ザナルカンドでは知らない人は居ないだろう歌。
ブリッツボールの勝利を祈る歌。
父はこの歌が好きだった。
息子以上に音感の無い父親は、好んでそれを口ずさんでいた。
それを聞いて知らずの内に覚えてしまったせいか、少年の歌うそれもどこか音ずれを起こしている。
「はさてかなえー…」
だが、それを聴き咎める相手もここには居ない。
少年は何度も繰り返し繰り返しそれを歌う。
歌う事で、自らを慰めるように。
「…?」
不意に、海が揺れた。
波とは違った揺れ方に、少年は歌うのを止める。
「何……」
海の中に、何か居る。
直感的に少年はそう思う。
それは当たっていたようで、暗い海の底から何か大きなものが浮上してくるのが分かった。
「う、わ…!?」
その巨大な何かはほんの少しだけ、とは言っても岩ほどの大きさだったが、水面から出してこちらを見ていた。
岩肌のあちこちにきょときょとと動く藤色の球体があった。
きっとそれらが眼なのだろう、少年の姿を確認すると一斉にその球体がこちらを見る。
「っ…!!」
少年は立ち上って逃げ出す事も、悲鳴を上げる事すらできず、全身をがたがたと震わせ、強張らせながらも必死で腕と脚を桟橋に突っ張らせて後ろへと後ずさる。
「…?」
だが、その少年を襲うでもなくじっと見詰めていた巨大なそれは、キョト、とまるで視線を伏せるように動き、現れた時と同じくゆっくりと海の底へと潜り始める。
「あ……」
何故だろう。
「ま、待って!!」
それが、とても寂しげに見えたのは。
「待って!行かないで!!」
それでも巨大なそれは止まる事無く海へと沈んでいく。
待って。ねえ。
少年の甲高い声が他に誰も居ない海に響く。
「独りにしないで!!」
途端、沈むそれが動きを止めた。
そして、その巨体には似つかわしくない、おどおどとしたような様子で再び水面から顔先を出す。
その無数の眼は途惑うようにキョトキョトと忙しない動きを繰り返している。
「ことば、わかる、のかな」
未知との遭遇に、引き腰ながらもそれを見詰める少年は小さな声で呟く。
明らかにこれは魔物だ。
セキュリティの整っているザナルカンドにも魔物は極稀に現れる。
けれど、大抵は市街地に到達する前に迎撃機器がそれを打ち落とす為、こんなに間近で見るのは初めての事だった。
勿論、危険である事など知っている。
けれど。
「なんでだろ」
何故か、危険だと感じる事が出来無い。
それは、ただじっと少年を水面から見詰めているだけだ。
「…俺のこと、たべちゃったり、する?」
じっと見詰めるだけで、応えはない。
「………たべちゃっても、いいよ?俺、いらない子だから」
少年の自嘲じみた言葉に、それの眼が微かに揺れる。
「いなくなっても、だいじょうぶだから」
少年は、泣きそうな顔を歪め、無理矢理笑っていた。






(続く)



(2002/03/17/高槻桂)

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