大きな足跡を辿る小さな足跡




彼の父親が死亡処理されてから、二ヶ月は疾うに経過した。
だが、父の葬式は行われなかった。
母が夫の死を認めなかったからだ。
もしかしたら、と消えかけた希望に必死に縋り付く母。
そしてとうとう心身の疲労が彼女を病院のベッドに縛り付けた。
それ以来、ティーダは学校へ行く回数が徐々に減っていった。
行かないとアーロンが煩いので行った振りをする事を覚えた。
ティーダは毎日「学校から帰って来たついで」にアーロンの部屋へ行き、彼の帰りを待つ。
いつの間に買い込んだのか、アーロンの部屋には多くの本がある。
一般常識、社会情報、地図、様々な書籍があったが、ティーダの笑いを誘ったのはその多くの書籍の半数近くが料理に関しての本だという事だった。
彼が何の仕事をしているかは知らなかったし、聞いても教えてはくれなかった。けれど、夕暮れ前には必ず帰って来てくれる彼に付添われ、ティーダは毎日病院へ母の見舞いに行っていた。
最初の頃はティーダ一人行っていたのだが、ある日アーロンが母の具合に付いて余計な事を言った為にティーダの機嫌を損ねてしまったのだ。
その免罪符として「病院への付添い」が小さな太陽から提示された。
結局は寂しがり屋の子供で、「両親の事を口にしない」「傍に居る」この二つさえ守れば子供はそれなりに懐いてくれるようだった。
そして病院の母は、毎日見舞っても彼女はいつも同じように白いベッドの上でその瞳を閉じている。
そう、倒れてこの病院のベッドに収まって以来、母は殆どの時間を眠って過ごしていた。
現実から逃れるように。
そんな眠る母の姿をじっと見詰め、そしてそのまま帰って来る。
アーロンは病室へは付いてこない。
彼なりに気を遣っているのだろうか。いつもロビーの片隅でティーダの帰りを待っている。
そして夕食はそのままアーロンと一緒に摂る。
何時の間にか出来上った暗黙の了解。
ティーダの家だったり、外食だったり。
けれど、アーロンの部屋で食事を摂る事は無かった。
これもまた、何時の間にか出来上った暗黙の了解。
アーロンを信用したわけでは無かったが、少なくとも、母が不在の今、彼が居て得をしたと思う事はあっても、損だと思った事は滅多に無かった。それ故、ティーダは彼を遠ざけたりはしなかった。
そんな日々が半月も続いた頃。
「703号室の奥さん、最近は殆ど目を覚まさないわね」
703号室、の声にティーダの足は止まった。
きょろ、と辺りを見回して声の出所を探ると、すぐ目の前に半開きのナースステーションの扉が映った。
「今は点滴で何とかなっているけど…このまま目を覚まさないとなると…」
ナースの声はその先を口にはしなかったが、その雰囲気でティーダは彼女が何を言いたいのかを察し、足早にその場を立ち去った。

「ティーダ?」
俯きながらざかざかと歩いてくるティーダに声を掛けると、彼はアーロンの前で足を止めた。
相変わらず俯いたままだ。
「…どうかしたか?」
少年の張り詰めた空気に膝を落し、視線を合わせてやるとアーロン、と小さく呟く声が聞えた。
「何だ」
「……帰る。連れてって」
差し伸べられた小さな手。あくまで顔を上げるつもりは無いらしい。
「……今日だけだぞ」
そう言ってアーロンは小さな少年の両脇に手を差し込み、その体を抱き上げた。
初めて抱き上げたティーダの体は余りにも軽かった。その想像以上の軽さにアーロンは目を見張る。
こうして抱き上げ、その軽さを実感するまではこの少年が細身だとは思いながらも、ここ最近は朝夕と食事を共にしているし、食欲も旺盛だったから気に留めはしなかった。
だが、翌々思い出してみれば自分と食事を共にするまでは母親が作り置いた僅かな惣菜と焼いたパン、そして同じく焼いた卵。そればかり食べていた気がする。
もしやジェクトが居なくなってからずっとそんな調子だったのだろうか。
それでは栄養が片寄ってしまって当然だろう。
「……今日は何が食べたいんだ」
「……オムライス」
首筋に顔を埋め、しがみ付いた少年のか細い声にわかった、とアーロンはその頭をぽん、と慰撫するように叩いた。




それから間もなく、少年の母は散った。
一人遺された少年は、泣かなかった。
泣くのを懸命に耐えているのではなく、言葉通り、泣かなかった。
何も言わず、ただ母の死を見詰めていた。
それが、アーロンには何よりもの危惧すべきものだった。
「ねえ、ティーダ君、これからどうするんだい?」
葬式も一段落付いた頃、一組の夫婦がそう声を掛けて来た。
その顔には葬式らしからぬ笑顔が張り付いている。
彼ら夫婦の妻の方が少年の母の叔母だと、そう彼らは説明した。
「良かったら、おばちゃんたちの所、来ない?」
「いい。俺、施設行くから」
『おばちゃんの家に行っても良いの?』などと子供らしい言葉でも返って来ると思ったのだろうか、少年の愛想無い応えに彼らは面食らったような顔をした。
隙あらばと様子を窺っていた他の親戚達も同様な顔をしていた。
まさか子供自ら施設へ行くなどという言葉が出るとは思っても見なかったのだろう。
「で、でもねぇ、施設なんてコワイ所よりおばちゃん達の家で暮らした方がとっても楽しいわよ?」
そう言い募る女にティーダはウンザリとした溜息を吐いた。
その言葉尻全てに「だから親権を」「だから遺産を」そんな声が聞えて来る気がしてならない。
もしかしたら、本当に親切で言ってくれているのかもしれない。
けれど、それを信じる事の出来る程、ティーダは「親戚」というものに対して良い印象を抱いていなかった。
ティーダはジェクト失踪の件があるまで、そしてこの母の葬式があるまではこんなに沢山の親族が居たなどと全く知らなかった。
クラスメイトの言う「従兄弟」や「祖母」「祖父」、そんな人間は誰一人として会った事が無かったし、聞いた事も無かった。
だから、両親とその親戚は余り良い関係ではないのだろうとは子供ながらに薄々察していた。
第一に、初めて会った親戚はあからさまにジェクトの遺産目当ての男だった。
それからやってくる何人かの「親戚」を名乗る者も皆遺産目当てでティーダにとって「親戚」は悪い存在でしかなかったのだ。
「アンタたちには頼らない。お金も権利もなんにもあげない。だから帰って」



「本当に施設へ入る気か」
夫婦が憤慨して帰り、それを見ていた親族も波が引くように去っていった家の片隅。
家の最後の主となった少年は自分の服の何着かを取り出し、大き目の鞄に詰込んでいた。
「そうだよ。あんたも帰れば」
「お前の後見を務めたい」
聞きなれない単語にティーダは手を止め、振り返った。
「コウケン?」
「お前の親代わり、という意味だ」
その言葉にティーダはなんだ、と溜息を吐いた。
聞き飽きた言葉だ。
「やっぱ、アンタも遺産目当てなんだ?」
「ジェクトの金など要らん」
即答された応えにティーダはきょとんとした。
要らん、と切り捨てられたのは初めてだった。誰も彼もジェクトの遺産目当てだと思っていた少年にとって、それは大きな事だった。
「それって、いつまで?期限付きの優しさなんて、いらない。コウケンしたいって言うんならショルイジョウってゆーのだけで良いよ。俺は施設行くからさ」
「最期まで、傍に居てやるさ」
「ウソツキ。アンタもいつかいなくなっちゃうんだ」
「本当だ。お前の傍に居る」
「本当に、ずっと居てくれる?」
「ああ」
「捨てたりしない?」
「ああ」
くどい位何度も何度も確認する少年。
きっと、この子供の中では大きな葛藤が起こっているのだろう。
もう無くす悲しみを知りたくないから、誰も信じないという思いと、それでも暖かい場所を追い求める想い。
「ティーダ」
ぴくり、と子供の肩が揺れる。
「ずっと、お前の傍に居る」
アーロンの言葉にティーダがふらりと立ち上り、手にした洋服が乾いた音を立てて床に落ちた。
そのまま子供は恐る恐る近寄り、そっとその小さな掌でアーロンの右の人差し指を握って見上げた。
「やくそくだよ?俺、アンタの事、信じるかんな?」
「ああ」
掴まれていない方の手でその柔らかな髪を撫でると、子供はほっとしたように笑った。
それが、アーロンが初めて見たティーダの笑顔だった。
「……ありがとう、アーロン」
そして名を呼ばれたのも、これが漸く二度目の事だと今になって気付いた。

そして、二人だけの生活が、始まった。









(2002/06/10/高槻桂)

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