大きな足跡を辿る小さな足跡
「俺、ティーダっていうの」 少年は水面に顔を出した彼にそう告げた。 「俺がいなくなってもね、かなしむ人、いないんだ」 だから、食べちゃっても良いんだよ。 そう少年は呟く。 「父さんは半年前に海でいなくなっちゃったし、母さんは毎日父さんを探しに行ってる」 きっと今も船の上なんだと思う。きっと、俺の事なんて覚えて無いよ。 息子の言葉に、彼は唖然とした。 確かに、妻は自分の身を案じているだろうと思っていた。 妻は、どちらかというとこの息子より、自分を大切にしていたからだ。 けれど、自分がいなくなって、その分その愛情は息子に注がれている物だと疑わなかったのだ。 「最初の内はね、ちゃんと夕方に帰ってきてご飯も作ってくれたんだよ?」 でも今は、同じ料理が三食分、毎日同じ。 家に居るのは寝る時だけ。 朝から晩まで家を空け、最愛の夫を捜しに海へ出る母。 「母さんね、毎日帰ってきてから父さんの部屋で泣いてるんだ。だから、俺、いいこにしてるの」 おかえりなさい。ご飯美味しかったよ。お風呂沸いてるからね。 「でも母さん、一度も俺を見てくれないんだ」 ぽろりぽろりとティーダの瞳から幾つもの涙の粒が零れ落ちる。 ああ、すまない、すまない。 彼は心底思う。 少年を見ていても、接し方が分からず、傷付ける事しか出来なかった父親。 少年を見ず、ただひたすら夫を盲目的に愛した母親。 ずっと甘える事も出来ず、それを知らず育った我が子。 彼は、適う事ならティーダを抱きしめたかった。 すまないと、愛していると、告げたかった。 なってしまったものは仕方ないと割り切っていたのに、この異形の姿が堪らなくもどかしい。 せめて、と腕の先から触手を這わせ、水面を割って少年の前で揺らめかす。 ティーダはびくりと体を強張らせたが、その触手が慰撫するように髪を撫でたので、それが自分を慰めてくれているのだと気付いた。 「……ありがとう」 強張っていたが、それでも小さくにこっと笑うと、嬉しそうに無数の眼がキョトキョトと動く。 「あ、そろそろ帰らなくちゃ」 きっと自分がいてもいなくても母さんは気付かないだろうけど、少しでも傍にいてあげたいから。 ティーダはそう言って立ち上る。 彼は名残惜しそうに触手を引っ込めると、ばいばい、と手を振って夜の街へ戻っていく息子の後姿をじっと見詰めた。 もう一度心の中で謝罪して、彼は海の底へと帰っていった。 早く帰らなきゃ。 ティーダは息を切らせながら眠らない街を駆け抜ける。 早く帰ってご飯を食べて、お風呂を入れて。 早くしないと、もし母が早く帰って来た時の為に、早く帰らないと。 「ねえ、さっきの、見た?」 若い女の二人組とのすれ違い様に、そんな声を耳にする。 「見たよぉ。すっごい大きな剣背負っててさ。びっくりしたよね」 女達の会話にティーダはその速度を落す。 (剣?) この街では護身用の小さな物ならともかく、それ以外の武器は禁止されていた。 当然、帯刀など以ての外だ。 そのため、ティーダは本物の「武器」を見た事が無い。 だから興味を惹かれたのだろう。 近くにいないだろうかと、ティーダは速度を歩く程度に緩めると辺りをきょろきょろと見回す。 今し方噂していたのだ。近くにいる筈だ。 だが、それらしい人物は見当たらず、ティーダは肩を落した。 詰らない、と軽く唇を尖らせ、ティーダは暗い路地へと入っていく。 暗く人通りも無いが、自宅まで行くにはここを通った方が近いのだ。 ティーダは馴れたもので、暗がりに蹴躓く事無く抜けていく。 「?」 ふと前方に人の気配を感じ、ティーダは足を止める。 暗くてハッキリとは確認できないが、確かに、視線の先には人が壁に背を預け、蹲っているようだった。 そして、傍らには何か大きな板の様な物が立てかけてある。 何だろうと思いながらも駆け寄り、その前を通過しようとしてぎょっとして立ち止まった。 板と思ったそれは、大剣だった。 先程の耳を掠めた女達の会話が蘇る。 コイツだ。 ティーダはそう確信する。 だが、それは片膝を立てて座り込み、じっと首を垂れて動かない。 体格からして男だ。それも、何かしらで鍛えている。 鍛えられた体を持つ父親を見て来たティーダにとって、肩や腕のラインでそれくらいの判別は付く。 死んでいるのだろうかと思い、ぞっとする。 こんな暗くて狭い路地の中、死体と対峙する自分。 恐ろしくて、そのまま踵を返して駆け出した。 「……」 けれど、その脚は瞬く間に速度を落し、くるりと回れ右をして戻って来てしまう。 「……だい、じょうぶ……?」 そっと覗き込むように問い掛けると、闇の中でその肩がぴくり、と動くのが分かった。 生きていた、とティーダはほっとする。 「どっか、痛いの…?」 応えはない。 「……お腹空いてるの?」 それでも問うと、漸く男はのっそりと頭を上げ、ティーダの方へ顔を向ける。 その顔は暗がりの所為でハッキリとは見えないが、男がこちらを見ているのは何となく分かった。 「いや…人を、探している…」 紡がれた言葉を理解する前に、この声、好きだな。とティーダは仄かに思う。 「誰を探しているの?」 その低く、張りのあるバリトンをもっと聞きたくてティーダは更に問い掛ける。 男は途惑うような素振りを見せたが、それでもティーダの質問に答えた。 「お前くらいの子供で……名を、ティーダと言う」 「へ?」 ティーダはきょとんとして男を見る。 今、この男は何と言っただろうか。 自分の聞き間違いでなければ、確かに目の前の男はティーダを探していると言った。 「知っているのか?」 暗がりでお互いの表情はよく見えなかったが、ぽかーんとしたティーダの様子が伝わったのだろう。僅かに身を乗り出して男が問う。 「知っているって言うか……」 俺の名前もさ、ティーダって言うんだ。 今度は男がぽかんとする番だった。 (続く) (2002/03/18/高槻桂) |