大きな足跡を辿る小さな足跡





『お母さん…』
子供の呼びかけに、女は気付かない。
彼女はソファに腰掛け、雑誌を読んでいる。
最愛の夫が載っている記事を。
『…お母さん』
もう一度呼んでみる。
『後でね』
返って来る応えは、もう、聞きなれた言葉で。
『……』
子供が俯くと、外から不意に車の音がした。
『あの人だわ!』
女は嬉々として立ち上がり、部屋を出ていった。
『……』
子供はその背中を見送り、母の出ていったドアを見詰める。
外からは嬉しそうに『おかえりなさい』と笑う母の声。
子供は踵を返し、自室へと駆けていく。
やがて入って来るだろう、母を一人占めする男から逃れる為に。
子供は部屋の隅で蹲る。
膝を抱え、顔を伏せ、眼を閉じる。
『…お母さん…』

――顔をお上げなさい…

不意に響いた声に子供は顔を上げる。
すると、そこは自分の部屋ではなく、光一つ無い暗闇の中だった。
すっと何かが額に触れた。
それが彼の指だと近くした途端、子供は元の姿へと戻る。
今の、在るべき姿に。
「…母さんの事、大好きだった」
ぽつり、と少年は呟く。
「けど、本当は、違ったのかもしれない。好きだと思う反面、離れていく母さんが…」
「違いはしない」
先程響いた声と同じ声がすぐ目の前で発せられる。
「どちらも、真なる想い。愛憎は表裏一体。どちらの想いも、受け入れて良いのですよ」
ふわりと額に口付けられる。
頭の芯がぼうっとする。
まるで、口付けられたそこから侵蝕されていくように。
何も考えられなくなる。
ただ漠然と、この姿すら見えない相手に心を開いていく己を感じる。
彼に触れられるのが、心地よくて。
「さあ、そろそろ日が昇る。目覚めなさい」
すっと離れた感触を惜しく思うと、彼は微かに笑った。
「大丈夫。また、夜になれば会えますよ」
その言葉に安心したように、少年の姿は掻き消えた。
「……」
一人残った男は少年の消えたその闇を見詰める。



――お母さん…
    かあさま…



少年の嘆きに重なるのは、遠い日の自分。
嘆く少年の姿が、昔の自分を見ているようで、哀れだった。
「……私らしくもない」
先程少年の額に触れた己の唇を、そっと指先で撫でる。
口付けるつもりなど、無かった。
「……」
ぽつり、と男は少年の名を囁き、己も目覚めるべくその姿を消した。




「ん〜…!」
ティーダはベッドの上で大きく伸びをした。
(ん〜…また何か変な夢見たような…)
最近、同じような夢をよく見る。
けれど、眼が覚めるといつもあやふやで、その内容を覚えていない。
(でも…)
悪い夢じゃ、無い気がする。
「いつまで呆けている積もりだ」
隣りから掛かった声にはっとする。
「あっやべっ着替えないと!」
ティーダより多少早く起きていたアーロンは、もう少しで着替え終る状態だ。
ティーダは慌てて掛けてあった服を取り、身に纏う。
ミヘン・セッションから、一晩経った。
あれからすぐジョゼ・エボン寺院を目指したが、到着したのが夕方だったという事と、皆の疲労も高まっていた事から隣りに立つ旅行公司で一晩明かしてから、という事になったのだ。
「っはよーッス!」
アーロンと並んで食堂へ向かうと、ワッカがこっちだ、と手を振った。
これが漸く馴れて来た、新しい「朝の風景」だった。




朝食を摂って、一息ついたティーダたちは早速試練の間へ挑もうと寺院へ赴いた。
すると、丁度試練の間から別の召喚士とガードたちが姿を現わした。
召喚士の名はイサール。
そのガードは彼の弟のマローダとパッセ。
マローダはともかく、パッセまでガードだというのにはティーダは驚きを隠せなかった。
あんなに小さな子供でもガードになれるという事を、ガードとは確かに召喚士の信頼できる相手なのだという事を知った。
「あ、これをここに嵌めて、その台座をこっちに動かしてさ…」
「こうか?よっと…うわっ!こっえー…」
考えるのは皆でなのだが、それを実行するのは何時の間にかティーダとワッカになっていた。
敢えて一人何もしていないと言うのなら、アーロンだ。
ワッカが何気なく、ブラスカと共にアーロンも此所にも訪れた事があるだろうと聞いた所、当てにするな、とにべも無く返された。
「俺が教えたら試練の意味が無い」
そう言ってアーロンは彼らの後ろで傍観者と相成った。
「ここ、全部光らせないといけないんじゃないかな?」
「あーそれっぽいッスね〜…つーことは、またあっちまで嵌めに行かないと行けないのか…」
面倒臭いと文句を言いつつも、スフィア片手に手前の部屋へティーダは駆けて行く。
かちり、とスフィアを嵌め込むと、バヂヂッと触れたら痛そうな音と共に壁を一筋の光が走り、ユウナ達の居る床の一部が光を放った。
「はいもう一個っと」
今度はその反対側の壁にスフィアを嵌め込むと、また一部が光る。
「おっ!なんか出て来た!」
全てを光らせると、その床から丸い石板の様な物が現れた。
昇降機だ。
一同はそれに乗り、上の階へと上がっていく。
上がった先で次々に祭壇を押していくと、アーロンがユウナの腕を引いた。
「そこに立っていると雷の直撃を受けるぞ」
「えっ?あ、ありがとうございます」
アーロンの言った通り、ワッカが最後の祭壇を押すと同時に天井に渦巻いていた雷が轟音と共に部屋の中心を走った。
それと同時に壁の崩れる音が聞える。
一同がそこへ向かうと、更に上への階段が現れていた。
皆が上へと階段を上っていく中、ティーダが足を止めた。
「ティーダ?どうしたの?」
ユウナの声に、ティーダは「いや…」と言葉を濁した。
「アーロン、ここって、これで終わり?」
「十年前はそうだったな」
アーロンの言葉に、ティーダは何やら考え込むような素振りを見せる。
「…あのさ、みんな、先行っててくんない?俺、ちょっと気になる事あるから…」
止める間も無く、ユウナが出てくるまでには戻ってくるから、と言い残してティーダは階段を駆け降りていってしまった。
「放っておけ。この一本道で迷うほど馬鹿じゃない」
どうしよう、と呟いたユウナにアーロンが切り捨てるように告げる。
「行くぞ」




ユウナが祈りの間に入って暫くもしない内にティーダは戻って来た。
「早かったわね」
「ん、これ、あげるッス」
渡されたのは、魔力スフィア。滅多に手に入らないスフィアだ。
「これ、どうしたの」
驚いてはいるものの、ここが祈りの間と隣接するだけにお互い声は潜めている。
「さっきさ、気になる事があるっつったじゃん?んで、下の階層まで戻ってみたらやっぱ何か壁に印が浮き出ててさ。それ調べたら破のスフィア見つけてさ。で、上に戻って祭壇にセットしたら宝箱出現ってワケ」
「それにしてもよく気付いたわね」
「だってさ、最後に祭壇出て来たじゃん?けど何にも使わないっておかしいんじゃねー?って思って」
「けど、破のスフィアの事なんてよく覚えてたわね」
破のスフィアを使って宝箱を取るシステムは、十数年前から取り付けられたものだ。
しかも通常の解き方で行けばそれに気付くものは少ない。
その為にその存在自体が余り知られていないのだ。
だからビサイド、キーリカ、そしてジョゼと立て続けに宝箱を開けているティーダはある意味凄いのかもしれない。
「や、俺も破のスフィアの事はすっかり忘れてた」
「は?」
「なんつーか、何か有るなーって思って印に触れたら破のスフィアが出て来たから「あ、そういえば」って」
「……」
ルールーの不審げな表情に、ホントだって!と相変わらずの潜め声で訴える。
「ま、とにかくこれは貰っとくわ。ありがとう」
未だ不満気なティーダにくすりと笑ってそれを仕舞った。
「あら?」
階下で壁の崩れる音にルールーが声を上げる。
「他の召喚士がもう来たのかしら」
試練の間は、他の召喚士が挑んでいたらその召喚士が出てくるまで後から来た召喚士は待機しなくてはならない、などという規則はない。
極端な話、二組の召喚士一行が同時に入る事も出来るのだ。
大抵、そういう時はどちらかが遠慮するのだが。
階段の出口を見詰めていると、そこから見知った二人組が上がって来た。
「あら、またアナタたちなの?」
褐色の肌に際どい衣装を身に纏い、恋人兼ガードの男を引き連れた召喚士、ドナだ。
それはこっちのセリフだと言いたい気持ちを押さえ、ティーダはさり気に会話の環から遠ざかる。
どうも苦手なのだ、このドナは。
するとバルテロの「アーロンさんのファンなんです」発言にティーダは目を丸くする。
うっわーオッサン、ファンだってさ。さすが伝説のガード。握手してるよ、似合わねーなどとティーダが思っている内にドナが余計な一言を言い、さり気に冷たい戦争が勃発した。
「うわぁ…」
なまじ室内の所々に雷が走っているだけに笑えない。
(怖…)
引き攣った笑いを浮かべながら、早くユウナが出てくるのを祈るしかなかった。




試練を終えた一行に、これから出発するには遅いからと寺院は宿を提供して来た。
試練で誰より疲労したユウナを思い、一同はその言葉に甘える事となった。
部屋は二つ。ユウナとルールーの女組と残りの男組。
心成しかワッカは緊張しているようだ。
その緊張の原因であるアーロンは全く気にした様子も無く己の太刀の手入れをしている。
その内夜も更けていき、ティーダたちはさっさと眠りに就いたのだが、ワッカが眠れたかどうか、知るものは居ない。




「あ」
翌朝、出発準備をしていたティーダは己の荷物袋を覗き込み、あるものに気付いた。
「お、キマリ」
ワッカの声にユウナの様子を見に行っていたキマリが帰って来た事を知る。
「ユウナ、どうだった?」
「まだ寝ているとルールーが言っていた」
疲れてたからな、と笑うワッカにキマリも無言で頷いた。
「キマリ」
ティーダは己の荷物袋から何やら取り出し、キマリへと駆け寄った。
「キマリ、あげる」
差し出したそれは一つの小手。
炎、雷、氷によるダメージが半減できる炎神の小手だ。
アルベド族のように自ら武器改造の出来る一族以外で、こうした多種半減防具を手に入れる事は難しい。
どうしたのかと見下ろすと、ティーダはへへっと決まり悪げに笑った。
「キーリカの試練の間で見つけたんだけどさ、キマリなら使えるだろ?」
ずっと近寄り難くて渡せなかったのだが、(今思えばユウナに渡してもらえば早かった)ミヘン・セッション以来話し掛ければ返してくれる様になり、これなら渡せるだろうと意を決したのだ。
「…ありがとう」
受け取り拒否の可能性を考えていただけに、受け取ってもらえた瞬間ティーダはほっと息を吐いた。
装備している小手を外し、早速付け替えてくれている姿に嬉しくなったのか、ティーダはキマリに近付く。
「俺が付けたげるッス!」
「……」
嬉々とした表情で言われて誰が断れようか。
キマリが無言で手を止めると、ティーダの手がそのベルトを取り、続きを継ぐ。
「入るわよ」
すると支度を終えたルールーが部屋に入って来て「あら」と目を微かに丸くする。
「珍しい光景ね」
嬉々としてキマリの小手を取り付けているティーダの姿に、ルールーとワッカは小さく笑う。
「キマリに声掛けてもらえたのがよっぽど嬉しかったんだろ」
「微笑ましいわね」
一見和やかにそう言い合いながらも、二人には必死で視界に入れない様にしている場所があった。
「……」
そう、無言で不機嫌オーラを放ちまくっているアーロンだ。
ワッカとルールーにしてみればさっさとこの場を逃げたいのだが、三人きりにしたら何が起こるかその方が恐ろしくて逃げられない。
「はい、でーきたっと!…あれ?何かこの部屋寒くないッスか?」
それまで小手に夢中だったティーダは漸く室内の異変に気付く。
「気のせいだろう、行くぞ」
いつもより低い声音でさっさと部屋を出ていくアーロンを、ティーダはきょとんとして見送る。
「何カリカリしてんスか?あのオッサン」
な?とキマリを見上げても視線を逸らされ、ワッカとルールーを見れば溜息を吐かれた。
「??」
自分が何かしたんだろうかと思いを巡らせるが心当たりはない。
「まいっか」
ティーダは己の荷物を背負うと、今だ呆れ顔の仲間たちと共に外へと向かった。







(2002/07/04/高槻桂)

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