5月1日の花:エーデルワイス=初恋
関口/京極堂




それは何の事はない、他愛の無い会話から産まれた一言だった。
「先生の初恋っていつですか?」
鳥口がいつもの笑顔で私を見ている。
「初、恋?」
私は一瞬何を問われたのか理解できず、思わず彼を見返してしまった。
「ほらよく言うじゃないですか、初恋は実らないって。かく言う僕も初恋は実るどころか花も咲かなかったんですよ。何しろ彼女は額縁の中でしか見た事が無く、聞けば本人は疾うに死んでいるという事じゃないですか。それ、祖母の若い頃の肖像画だったんですよぅ」
ぺらぺらと捲くし立てる鳥口の言葉を私はどれだけ理解できていたのだろう。
初恋。
その単語が思考という空間いっぱいに膨張して他ごとを考えられない。
そしてそこに覆い被さるように現れた少女の面影。
モノクロォムの世界。

――あの時、あなたは来なかった

一瞬、稲妻の様に脳裏に閃いては消えた残映。
あの時、もしあの時。

――あなたがあのいやらしい菅野から私を救ってくれるんだと思ってた…

先輩ではなく私が彼女の元へ行っていたら。
あのまま彼女の白く細い腕を引いて攫っていたら。
いいや、きちんと恋文を梗子に渡せていたら。

――私を…たすけてください…

咲き誇る白い花。
底無し沼のような深い漆黒の瞳。
少女から女へと変貌を遂げた白い肢体。
光さえ吸い取ってしまいそうなしっとりと柔らかな黒髪。

彼女が、そう、だったのだろうか。

「先生?」
鳥口がきょとんとした眼差しで私を見ている。
「あ、ああ…うん…」
私が何とも気の抜けた返事をすると、彼はそれで、と食い下がってきた。
「先生の初恋はどうだったんです?」
どうしても聞きたいらしい。
暇人め。
ここは一つ、適当にでっち上げて逃れるとしよう。
どうやら私はこの鳥口という青年に対してはそれなりに余裕というものが出来てきたらしい。
偏に鳥口自身の人柄のおかげなのだが。
「そうだなあ…」
私は間を繋ぐように湯飲みを手にする。
すっかり冷めて温くなってしまった茶を啜りながら思う。
『目眩』という形で中途半端にあの出来事を吐き出してしまった今の私には、彼女の事を言葉にするのは難しい。
目の前には期待に満ちた視線を向けてくる鳥口。
私はどうやってこの青年から逃れたものかと視線を巡らせ、一つ、溜め息を吐いた。

 

 

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