5月2日の花:イチゴ=誘惑、甘い香り 氏政/ミラージュ(群青) |
あの朝の出来事を、時折夢に見る。 ――なんでもありませぬ、あにうえ… 掠れ切った声でそう告げる末弟の腫れぼったい瞳。 自分はただ、その覚束ない足取りで去っていく後ろ姿を見送っただけだった。 ――何故、引き止めて下さらなかった… ぎくりとして振り返る。 「三郎…」 自分の背後、その幾ばかりか離れた所に先程去っていったはずの末弟が佇んでいた。 ――たった数歩、こちらへ歩み寄って下されば良かったものを… その唇は閉ざされたまま、けれど三郎の声は氏政へと届く。 ――あの朝出会ってしまったのが、あなたでなければ良かったのに… あの時と同じ虚ろな瞳で彼は責める。 そうだ。氏照ならば、否、氏邦でも氏規でも良い、他の誰でもそうしただろう。 駆け寄り、どうしたのかと問い詰め、そしてその体に残る陵辱の跡に目を見開いただろう。 必死で否定する三郎を問い詰め、怒りに、そして全てが終わるまで気付かなかった己の不甲斐なさでその体を震わせながらきつく抱きしめただろう。 たった一人で冷たい水を浴びさせる事も無く、暖かな湯殿へ導き、その傷を癒してやったのだろう。 そして反旗を翻す直前の松田どもを手打ちに出来ただろう。 もしかしたら三郎が荒れに荒れる事も無かったやもしれない。 だが今更そんなことを思ったとて栓の無い事だ。 四百年も昔の事を。 ――三郎は覚えておりまする、兄上 見透かされたような一言に氏政の視線は三郎から逸らされる。 ――四百年の間、欠片とて忘れた事は御座いませぬ…兄上 背後から上がった声にびくりとして振り返る。 ――あの屈辱、一時たりとも忘れられはしませぬ いつの間にか三郎が真後ろに立っていた。 ――あの者どものマラを押し込まれ、精を吐き出された時の絶望を三郎は忘れはしませぬ たとえどれだけの時が流れようとも。 何度肉体が変わろうとも。 ――忘れさせてはくれぬのです、兄上… それまでただ佇んでいるだけだった三郎の腕が持ち上がり、己の体に纏わり付いている緩んだ帯を、皺と砂だらけの着物をぱさりと落とした。 下帯すら着けてないその裸体に目を奪われる。 日に焼けていない白く美しい肌。 その体の至る所に散る、鬱血した痕。 内股には朱と白濁したそれが混ざり合い、伝っている。 脳裏でけたたましい音を立てて警鐘が鳴る。 見てはならぬと。 ――あの者どもは犬のようにこの体を舐め、飴のようにしゃぶり、蛙のようにこの脚を開かせて犯したのです… あにうえ、と鈴が蕩けるような声音で自分を呼ぶ。 一層高まる警鐘の音。 聞くな、聞いてはならない。 ――穢れを、祓って欲しいのです… くらり、と一瞬の目眩。 遠ざかる鐘の音。 そして気付けば三郎を組み敷いていた。 ――兄上… やんわりと首に絡み付くその腕に誘われる様に唇を寄せる。 自分の唇がその唇を傷付けてしまうのではないかと思うほどそれは柔らかでしっとりと濡れていた。 切れて血が固まっている唇の端にも口付け、舌を這わせると痛みではない甲高い声がその唇から微かに漏れる。 女とは違い、紅の乗っていないその唇を何度も角度を変えては吸った。 進入する舌にたどたどしく応える三郎の舌。 音を立てながら吸い、擦りながらその手を脇腹に沿わせる。 掌に吸い付くような肌触りを確かめるように氏政はその手を脇腹、腰、脚へと滑らせては返した。 ――すべてに、三郎の全てに触れてくだされ… 微かに震える吐息に混じるその声すら濡れているようで、氏政はそれを食らうように再度口付ける。 三郎の唇を吸いながら、思う様にその体を撫で回していた氏政は他者の気配にびくりとその身を強ばらせて顔を上げた。 言葉が出なかった。 枕元に立ち、自分たちを冷え切った目で見下ろしていたのは氏政自身だった。 ――実の弟を犯すのか 『氏政』は感情の無い声で告げる。 ――三郎に劣情を抱いたのか 違う、と咄嗟に氏政は言い返す。 違う、そうではない、これは、 ――同じよ…その体を弄っては舐り、貫いて吐精する…彼奴らと何が違う 三郎が凶星として生まれついたのではない。お前が三郎を凶星に堕としめたのだ 私は、私は…!! ――お前も穢れでしかない 「……っ……」 はっとして目を開ける。 心臓が早鐘を打っている。 纏わり付く不快感に、氏政は自分が汗をかいている事に気付いた。 ゆっくりと身を起こし、室内を見回す。 見慣れた和室。 障子を透かして薄暗い光が射し込んでいる。 夜がまだ明け切っていないのだ。 夢だったのだ。 氏政はほう、と息を吐いて夢の光景を反芻する。 いつもは何でもないと告げた三郎が立ち去り、微かに水音が聞こえる所でその夢は終わっていた。 けれど、今のは。 「………」 氏政はちらつく残映を振り切るようにゆるゆると首を振った。 |