5月4日の花:サクラ草=若い時代と悲しみ
景虎、神田右衛門/上杉覇龍伝




所用で席を立っていた神田右衛門は主の姿を探して屋敷をさ迷っていた。
中庭にその姿を認め、声を掛けようとした右衛門は不意にその口を閉ざした。
中庭に拵えられた小さな池、その辺に腰を下ろした男。
素足を足首まで水に浸し、鯉が時折突つくのもそのままに、ただぼんやりと水面を眺めている。
なまじ姿勢が良く容姿端麗なだけに、まるで彫像が腰掛けているようだ。

――おのれ、秀吉!

氏政と氏照が切腹したとの報せを受けてから、三日が過ぎた。
激昂し、やがて真田昌幸の言葉に声を上げて号泣した姿とは対極に位置するその表情。
怒りと悲しみ、悔しさと共に、他の感情全てをも去ってしまったような。
そんな主の後ろ姿を見つめながら、今はそれでも良いと思っている。
主には休養こそが必要だと右衛門は思う。
しかし、と空を見る。
薄らと茜色に染まり始めた空。
このままでは風邪を召されてしまう。
右衛門は縁側へと向かい、脱ぎ捨ててあった衣を拾い上げて草履を履いた。
静まり返った庭に右衛門の玉砂利を踏む音だけが響く。
「殿、日が落ちてまいりました。お屋敷の方へ」
男は動かない。
「景虎様」
もう一度呼びかけると、男は徐に視線を持ち上げ、池から足を上げた。
ゆらりと立ちあがり、素足のまま玉砂利を踏みしめて縁側へと向かう。
その肩に手にしていた衣を掛けてやる。景虎は何も反応を返さない。
縁側に腰掛けた男の足元に跪き、その脚を布で拭ってやる。
水気と僅かな砂粒を丁寧に拭う。
景虎はじっとそんな右衛門を見下ろしていた。
「……すまぬ」
ぽつりと呟かれた謝罪の言葉。
右衛門は微かに目を見張り、主を見上げた。
そこには能面のような無表情ではなく、切なげに眉根を寄せた主の顔があった。
「何を申されますか」
「わしはそちに世話を掛けてばかりおる」
不甲斐ない、と呟く主に右衛門はいいえ、と首を振る。
「自らの意志で殿の傍らにおりまする故、殿のお心を煩わせるような考えを抱いた事はありませぬ。加えてここは陣中でもなければ今は真田殿の目もありませぬ。ごゆるりとなさるが良いかと」
それでも表情を曇らせたまま沈黙する主に苦笑し、足袋を履かせながら続ける。
「今は御養生なされませ」
わしは病人か、と先程よりは軽い口調で男が言う。
「心の療養も必要で御座います」
微笑んでそう返すと、景虎の口元にも微かな笑みが浮かんだ。
右衛門は景虎の着物の裾を整え、さあ、と見上げる。
「夕餉の前に湯殿でお体を暖めておいでなさいませ」
縁側に立ちあがった景虎は、同じく身を起こした右衛門へを見下ろして微かに笑う。
「うむ。そうするとしよう」
「お背中をお流し致しましょう」
報せを受けて以来、初めての主の笑みに、右衛門もつられるように破顔した。

 

 

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