5月6日の花:イカリソウ=君を離さない
久保、関口/京極堂




顔の無い男がこちらを見ている。
整髪料で撫で付けられた髪。
皺一つ無いスーツ。
きっちりと締められたネクタイ。
白い、手袋。
その両の手の上には小さな匣。
あの中には何が。
そう思った途端、男が嗤った。
三日月のように細く釣り上がった嗤い。
男が匣の蓋に手を掛ける。
いいや、矢張り結構だ。
私は咄嗟に制止の声を上げた。
匣の中を見てはならないような気がしたのだ。
けれど男は嗤う。
いいえ、いいえ、是非ともご覧くださいませ。
止めてくれ、私は、
匣は男の手によって音も無く開かれる。
私は此方に居たいのだ…!


一瞬の痙攣。
勢い任せに両目を開ける。
映し出したのは天井でも布団でもなく。
どういう事だ。
これは夢か。
私は未だ寝ているのか。
それとも夢だと思ったものは全て現実なのか。
どうしてあの男が私を見下ろしているのだ。
「恐ろしい夢でも見ましたか、関口先生?」
先ほどとは違い、しっかりと目鼻のあるその男は薄い笑みを浮かべて私を見下ろしている。
「…く、久保…竣公…」
本来なら久保先生、と呼ぶべきなのだろうが今の私にはそんな些細な事すら無理だった。
けれど枕元に座った男は気を概した様子もなく更に笑みを深めた。
「覚えていて下さったのですね。光栄です」
「ど、どうして、ここ、に…」
そうだ、どうしてここに彼が居るのだ。
ここは私の寝室で、来客の予定も無ければ当然彼を家に上げた覚えも無い。
雪絵は?
そうだ、今日は婦人会の用事で遅くなると。
だから私は何をするでもなく、そのままだらだらと寝入ってしまったのだが。
何をどうしたらこの状況になるのだ。
「あなたが誘ったではありませんか」
久保は薄い笑みを貼り付けたまま言う。
違う、私は招いた覚えはない。
けれど久保は私の頬へと手を伸ばす。
手袋の感触。
ざわり、と皮膚の下を小波が駆け抜ける。
起き上がる事も、身動きする事も出来ずに固まっている私を見下ろす久保は何処か楽しそうだ。
「そんなに熱烈に誘うものだから、いても立っても居られず来てしまいましたよ」
何を言っているのだこの男。
それとも本当に私が彼を招いたのか?
私が忘れているのか?
否、そんなはずはない。
私がこの男を招くなど、有り得ないのだ。
「関口先生」
久保が、微かに身を屈めた。
怜悧さを含んだその端正な顔が僅かに近くなる。
私は動けない。
瞬きさえ躊躇うほど。
「埋めて欲しいのでしょう?」
何だって?
「その隙間を、埋めて欲しいのでしょう?」
隙間?埋める?
何の事だ。
「な、なに、なにを、きみは…」
この男は何かを思い違いしている。
きっとそうだ、そうに違いない。
けれど私の口はまともな言葉を発してくれない。
「ああ関口先生、もう良いのですよ、そんなに欠落を見せ付けて私を誘わなくとも、もう大丈夫」
また少し、久保の顔が近づいた。
「安心なさい、埋めて差し上げますよ、そう、」
みつしりと。
三日月のように唇を細く釣り上げ、男が嗤った。

 

 

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