5月16日の花:スズラン=清らかな愛、繊細
関口/京極堂・陰摩羅鬼




帰りの電車内はそれほど混雑していなかった。
私は窓際に座り、その隣に伊庭が座った。
向かいには京極堂が黙々と本を読んでいる。
いつもの事ながら、酔わないのだろうか。
細君の言う通り、きっとこの男には三半規管が無いのだろう。
榎木津はと言うと、隣の座席一つを占領して寝こけている。
寝返りでも打とうものなら確実に座席から転がり落ちるだろう。
だが榎木津はぴくりとも動かない。電車が急ブレーキでも掛けない限り落下しそうに無い。
私はそんな面々を眺めながら、ぼんやりと今回の事を思い返していた。
もし榎木津の眼が始めから見えていたら。
若しくは、私がもっと早く伯爵の瑕に気付いていれば。
否、たとえそうだとして、どうなっただろう。
薫子は死なずに済んだのだろうか。
榎木津は現状を撹乱するだけだし、私に至っては見苦しく慌てふためくだけだろう。
結末は結局同じだったのかもしれない。
私は伯爵の顔を思い出してみる。
脳裏に浮かび上がってきたのは血の気の引いた青白い死人のような伯爵ではなく、薫子に笑いかけた時の様に仄かに赤みを持つ、由良昂允だった。
ああ、彼は此方側へ来たのだ。
何となくそう感じた途端、女の嬉しそうな笑顔が思考を掠めた。
一瞬の事で、それが誰だったのかは分からない。
薫子だろうか。
それとも。


私は死にません――。


不意に薫子の言葉が蘇る。
けれどその声はあやふやで、彼女の声ではないような気もする。
彼女の声がどんな声だったのか、私はもう忘れてしまったらしい。
気付けば目を覚ました榎木津が胡乱な眼で私を視ていた。
「馬鹿が」
また彼はいつもの様に私を罵った。
「何なんですか」
「馬鹿に馬鹿といって何が悪い」
関口君、と今度は京極堂が本から視線を上げないまま私を呼んだ。
「君はいつまで薫子さんに同調している積もりだい」
「同調?」
京極堂はそれ以上は何も言わず黙々と文字を追っている。
私は問い詰める事を簡単に諦めた。
彼の言いたい事は、今回ばかりはすぐに分かったのだ。
見回すと、誰もが沈黙していた。
伊庭は疲れたのだろう、ぐっすりと寝ている。
榎木津も何時の間にやらまた寝ている。
あれだけ寝ておいて善く眠れるものだ。
そして京極堂は矢張り酔わないのだろうかと疑問を抱いてしまうほどじつと本を読んでいる。
私は何となく窓の外へと視線を向けた。
町並みがつらつらと流れていく。
私はただぼんやりとそれを眺めていた。


薫子が言う。
今私が死んでしまったなら、伯爵様は――。
昂允様は、悲しむでしょう――。
これ以上あの純粋な人を傷付けてはいけないと――。


それは矢張り、私の声だった。

 

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