5月24日の花:ハナショウブ=信頼
上条、内藤/CASSHERN




私は、生まれてからずっと陸軍の頂点に立つ父の姿を見てきた。
父の眼から見た世界はどれほど広いのだろうかと。
父はいつもその景色を見下ろしているのだろうと。
尊敬していた時期もあった。
その父から地位を剥奪し、軟禁した。
私は今や総帥と呼ばれる立場に立った。
ここから見える光景は、確かに広かった。
そしてここからは確かにその景色を見下ろせた。
けれど、ここはなんと不快感溢れる地位なのだ。
見渡す限り醜い私利私欲、痛ましい戦の爪痕。
見慣れていたはずの光景が、より一層纏わり付いてくる。
ある時から父はその胸の内を語らなくなった。
その気持ちならば、今は少しだけ分かる気がする。
ここは、そういう場所だ。
胸の内に、ふつふつと沸くが如く淀んでいく。
言葉になる事の無い、何かが。
父は何を思ってこんな所に何十年と座り続けたのだろう。
こんな、崖の上から谷底を覗き込むような場所に。
病んでいくとはっきりと分かるこの場所に。
偉大なる父。
矮小なる父。
息子に全てを奪われ、閉じ込められたあの老人は今、何を思っているのだろう。

否、全てではない。

『内藤です』
機械越しの薫の声が耳に届く。
「入れ」
しゅん、と空気の抜ける音がして扉が開かれる。
静かに入室してきた薫がミキオの前で立ち止まる。
「私の演説中、何処に行っていた?」
薫の表情は変わらない。
「上条将軍の元に新造細胞の報告書を届けに。因みに内容は総帥にお渡し致しました物と全く同じ物になりますが。それが何か」
淀み無く言ってのける薫の態度に男の表情が微かに歪む。
すると、意外にも薫の表情が僅かに驚いたように揺らいだ。
「何故そんな目で私を見るのですか」
珍しく素の感情の滲む声音だった。
「何だと?」
「まるで裏切り者を見るような眼で私を見ておられる」
表面には僅かにしか現れていないが、どうやら内面では心底驚いているようだった。
「違うのか」
その一言に薫の表情は更に色を増し、誰が見ても驚いているという顔をしていた。
「総帥、貴方は今御自分が何を口にしているのかお分かりでしょうか?」
いつぞやの父の言葉をフラッシュバックさせるその言葉に、ミキオはむっとする。
「当たり前だ」
だが、薫はミキオを見つめたまま「いいえ、お分かりになっていない」と窘めるように否定した。

「まるで私の事を信頼していたような物言いをなさっておいでです」

今度はミキオが驚く番だった。
「私が、お前を信用していなかったとでも…?」
今ほど内藤薫という人間が分からなくなった瞬間は無いだろう。
薫がミキオの前に現れてからもう十五年近くが過ぎた。
自分は気に入らない人間を傍に置いたりしないし、気の許せない相手をプライベートを共にはしない。
この、彼への「感情」は伝わっていなくとも、「信頼」は多少なりとも感じていてくれると思っていた。
だが、薫はその端正な顔を奇妙な笑みに歪めて告げた。


「下層階級の人間は奴隷と同等であると定めたのは貴方のお父上ではありませんか」


奴隷に寄せるものなど御座いません。
ミキオは言葉を失った。
脳裏に動揺一つ見せない父の姿が蘇る。
私に全てを奪われた?
違う。
あの老人は、内藤薫という存在を手にしたままだ。
薫は上条の家に囚われているのではなかったのだ。
況や、自分が捕らえているわけでも繋ぎ止めているわけでもなかった。
始めから薫は、内藤薫という存在は「階級制度を打ち立てた男」ただ一人に囚われていたのだ。
「かお…」
「いけません、総帥」
思わず昔のように名を呼びかけたミキオを薫が制した。
じり、と何故か脅えたように薫は一歩退いた。
全てを否定するように緩やかに首を左右に振り、もう一歩、退く。
「あ、東博士が…そろそろ、御到着なされますので…私は、これで失礼させていただきます」
余程動揺しているのか、敬礼もせず薫は執務室を出ていってしまった。

 

戻る