6月8日の花:ワスレナグサ=真実の愛、私を忘れないで
諸戸、箕浦/孤島の鬼




「こんなふうになってしまったぼくを、きみはもう想ってはいまいだろうね」
苦笑混じりに問い掛けたわたしをまっすぐに見詰め、いいやと首を左右に振った諸戸のほほえみをわたしは一生忘れる事はないだろう。
痩せこけても髪が老人のように真っ白になってしまっても矢張りきみは美しいよと、まぶしそうに目を細めたほほえみはわたしの心の深いところに今も残っている。
そして実の両親のもとへゆくときの彼のすがたも善く覚えている。
「すぐに戻ってくるよ、すぐに戻ってくるよ」
そして彼はそのまま見知らぬ故郷の地で帰らぬ人となってしまった。
彼の実父から届いた死亡通知に添えられた一文がどれほど鋭くわたしの心を貫き鮮やかな瑕を残したのか。
彼はわたしの名をつぶやき、わたしからの手紙を抱きしめて逝ったという。
わたしにはそのさまがありありと浮かぶ。
「箕浦くん、箕浦くん」
おそらく呼吸すらまともでない中にそれでもわたしを呼び続けていたのだろう。
それはどんな想いが込められていたのだろうか。
最期にわたしに逢いたいと願ってのことだろうか。
それともわたしとの約束を果たせないことだろうか。
もしくは自分を選んではくれなかったことへの未練だろうか。
けれどああ、わたしは酷い。わたしは酷い。
諸戸があそこで死んでしまったこと、それを結果としては善かったのではないだろうかと思ってしまっているのだ。
だってそうじゃないかしら。秀ちゃんと結婚してしあわせな家庭を築くわたしの姿を見ていることは彼にとってとてもとても苦痛を伴うことなのだから。消えぬ不倫の想いに苦しむことはなくなったのだから。
わたしは卑怯だ。卑怯なのだ。
彼の死は彼のために善かったことなのだとそう思うことで彼の気持ちから逃げようとしている。わたしの自分の気持ちからも逃げようとしている。
わたしは気付いてしまったのだ。もしわたしが女で、彼が女性不信でなかったとしたら。わたしは迷わず彼の手を取っていただろう。わたしは彼の情欲を受け止めただろう。わたしは彼の妻となっただろう。
そうだ、わたしも諸戸道雄を想っていたのだ。
けれど不倫の想いだということが、同じ性の肉体であるということが彼に触れられることを嫌悪感へと導いたのだ。
彼がわたしを組み敷いた時、抱き寄せた時、頬を寄せた時、わたしは常に彼を受け入れる存在なのだと薄ぼんやりと思っていた。このまま彼の熱い吐息に唇を吸われ、からだのすみずみをもねぶりつくされるのが当たり前のように感じることもあった。
けれどもわたしの脳はそう感じたと自覚した次の瞬間にはもう正反対の信号を発し、わたしの全身に嫌悪感を電流のように走らせるのだ。しかしそれは彼へのものではなく、わたし自身への嫌悪感だったのかもしれない。
そうしてわたしは受諾と拒絶を繰り返して彼の心をわたしのとりこにしたのだ。
わたしはあの事件以来、ひとりっきりで真っ暗闇の中に身を置くことは禁忌となった。けれどわたしは秀ちゃんたちの目を盗んで独りひっそりと暗闇に身を投じる。
すると諸戸道雄がわたしにのしかかってくるのだ。
はっはっと獣のように荒い息でわたしを拘束して組み伏せる。わたしが恐怖にふるえていると大丈夫だよ大丈夫だよと彼は熱い吐息でわたしの耳元に囁くのだ。怖いのかい、この闇が怖いのかいぼくが怖いのかいそれともじぶんがどうなってしまうのかがこわいのかい。
熱いぬめりはわたしのほほや唇や舌を執拗にねぶりっては吸うのだ。やがてそれが首筋に下るとわたしの肌は総毛立ち彼は悲しそうな声を出す。そんなにぼくがいやなのかい。けれどわたしは何も答えることが出来ずにただ震えるしかない。やがてまた大丈夫だよ大丈夫だよと繰り返す声と共に熱いぬめりがからだじゅうを這い回ってゆく。真っ暗闇の中でたしかな感触は彼のその熱い吐息とぬめりとからだをまさぐる矢張り熱い掌の感触だけなのだ。
「ああ道雄さん、道雄さん」
彼の掌がそうっとわたしの中心に触れた瞬間、思わずわたしは彼を呼んでいた。大丈夫だよとまた声がする。やんわりとその掌がわたしの中心を撫でるたびにわたしはあさましくももどかしげにこのからだを捩るのだ。
「ああきれいだ、きみは美しい、きみは美しい」
わたしは何も纏ってはいなかった。わたしはいつ服を脱いだのだろう。いつもそうなのだ。この暗闇にいる時は気付けば纏うものはすべてなくなってしまっているのだ。もしかしたら暗闇に身を落とすたびわたしは自分で脱ぎ捨てているのかもしれないのだけれどそれに思い至る頃にはそんなことはどうでもよくなっていた。わたしは彼に与えられる愛撫にただ身を捩りあさましく声を漏らすだけなのだ。
「箕浦くん、箕浦くん、ぼくを受け入れて、ぼくの愛を受け入れて」
うっとりと恍惚の色に染まった彼の声がわたしのからだを貫いては抜け落ちてゆく。それはまるで彼の情欲の塊を抜き挿しされているようでわたしはいっそうあられもない声を上げて彼の名前をうわごとのように囁いた。
「箕浦くんもう我慢しなくても善いんだよ大丈夫、きみの何より美しい瞬間はぼくがちゃんと見ていてあげるから」
ああ、きみが見ていてくれるの。彼の言葉はわたしのからだをさらなる熱の塊で激しく貫いてわたしはまるで陸にあげられた魚のようにからだを跳ねては彼の手の中にいやらしい情欲のあかしをほとばしらせたのだった。
そうして漸くわたしは理性の一片を手にするのだ。
ああそうだ情欲のあかしに濡れる掌は諸戸道雄の掌ではない。わたし自身の掌なのだ。
彼の熱い吐息もぬめりも掌もすべての感触はわたしの妄想のなかの産物であり実際には真っ暗闇の中ひとりきり自慰に耽っていただけなのだ。
それとも暗闇の中にはほんとうに彼の幽霊でもいるのかしらとわたしは思う。けれどそれをすぐに否定してわたしは何も無い闇を見続ける。暗闇のなかわたしの元へ現れる諸戸道雄は幽霊といえるほど冷たい存在ではない。むしろ熱く滾るものなのだ。そう、いちばんちかい言葉でたとえるのならば、情念や妄執の類なのだろう。
諸戸道雄のわたしへの不倫の想いはわたしの中にまるで雪が積もるようにしんしんと長い時間を掛けて降り積もり、それがまるでねんどのように混ざったのだ。わたしの諸戸道雄への想いに。
そして生み出されたのがこのあさましい暗闇の妄想。
もし彼がこんなわたしを知ったら狂喜乱舞するだろう。彼の愛したわたしが彼になぶられるのを思って自慰に耽るなんて。
みじめだとあさましいと思いながらも暗闇に身を投じることをやめることができないわたしはすぐにまたここを訪れるのだろう。おのれの中の歪んだ想いを愛し愛されるために。
「すぐ戻ってくるよ、すぐ戻ってくるよ」
最後に聞いた彼の言葉がまたわたしの脳裏に蘇った。

 

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