1月16日の花:デージー=あなたと同じ気持ち 庵、京/嵐の夜に |
この辺の山には、大きく分けて二つの種族が存在する。 一つは険しい谷に住む「草薙」という狼の者たち。 もう一つは穏かな草原に住む「八神」という山羊の者たち。 食う者と食われる者。当然仲が良いわけがなく。 草薙の当主の名は京。 八神の当主の名は庵。 お互いの当主がどんな顔かも知らず、名前だけが伝わっていた。 殴り付けるような雨の中、庵は草原を駆けていた。 「ちっ…」 突然の嵐。物の数秒で全身はぐっしょりと濡れてしまった。 けれど、だからと開き直ってこのままこの嵐の中を帰れるほど優しい雨ではない。 雨はまるで石礫の様に全身を打ち、風は轟々と荒れ狂い体のバランスを崩させる。 庵は丘を滑り降り、やっと辿り着いた小屋へと潜り込んだ。 「……」 やれやれ、と溜息を落として上着を脱ぐ。 まるで水に漬け込んだような有り様のそれを絞り、積み上げられた薪に凭れ掛かって腰を下ろす。 このまま嵐が去るのを待つしかない。 何一つ見えない暗闇の中、風と雨の叫びを聞きながら庵は眼を閉じる。 バタン! 不意に扉の開く音に庵は閉じたばかりの瞼を持ち上げる。 とはいってもこの暗闇の中、何も見えはしないが。 「ああもう最悪!なんだっつーんだよ全く!」 誰かが入って来たようだ。 自分と同じく突然の嵐に襲われ、逃げて来たのだろう。 声からして男だ。 彼が歩く度、こつん、こつん、と硬い音がする。 嵐の音に紛れて聞こえてくるそれは蹄の音に聞こえた。 どうやら八神の者らしい。 「貴様も逃げそびれたのか」 すると彼は「へ?」と素っ頓狂な声を上げた。 「なんだ、誰かいたのか。真っ暗でなんもわっかんねーからさ。悪ぃ」 お前の持ち家か?との問いに庵は否、と応える。 「今飛び込んで来た所だ。まさかこんなに酷くなるとはな」 すると彼は全くだぜ!と憤慨したような声を上げた。 「お陰でずぶ濡れになるわコケるわで最悪ったらありゃしねえ!」 そう言いながら彼は手にしていた棒を捨てた。 カラン、と音がした筈だったが、それは暴れ狂う風の音に掻き消され、庵の耳に届く事はなかった。 彼は、八神の天敵である草薙の者だった。 けれどお互いに相手が草薙だと、または八神だという事に気付いていない。 お互いに同族だと思っている。 「よっこいせっと…ったたたた…」 彼が近くに腰を下ろした気配がする。 「何処か痛めているのか」 「足をちょっとな。なあ、ちょっとそっちに足伸ばして良いか?」 「好きにしろ」 「それじゃ失礼して。よっと…あ、悪い」 伸ばした足がとん、と庵の足に触れたのだ。 気にするなと返しつつ、庵はふと疑問に思った。 蹄が当たったにしては、柔らかかったような気がする。 だが、彼の気配はすぐそこにある。 恐らく膝が当たったのだろう。 「へっくしゅ!あーもう鼻も全然きかねえ…こりゃ風邪ひいたな…お前は?大丈夫なのか?」 「右に同じく」 「だよなー。これで風邪引かねえつったら余程のバカだぜ」 それから不意に沈黙が訪れ、再び荒らしの音が暗闇を支配する。 「…腹減った」 暫くして、彼がぽつりと呟いた。 「そういやさー、俺、子供の頃はホント痩せててさ。お袋からもっと食えってよく言われた」 「弱い者は死ぬしかない」 「そうそう。速く走れないと生き残れないからってさ。なあ、お前、」 その瞬間、稲妻が近くに落ちて小屋の中をまるで昼間の様に明るく照らし出した。 「うわ、びっくりした…あーちくしょう、目ぇ閉じちまったからアンタの顔、見れなかった。アンタは?」 「右に同じく」 「アンタさっきからそればっか。まいっか、夜が明ければ分かる事だし」 そして彼は「なあ、」と続ける。姿は相変わらず見えなかったが、きっと彼は無邪気な笑みを浮かべているに違いない。 「今度、天気の良い日にでも会わねえ?」 「…暇だったらな」 「んじゃ昼、暇にしとけよ」 気付けばお互いの声が良く聞こえる。 嵐は去っていた。 「ひでえ嵐だったけど、まあアンタに会えたから良いや」 よっ、と掛け声と共に彼が立ち上る気配がする。 「足は良いのか」 「まあこれくらいなら大丈夫だって。それより、約束、忘れんなよ」 「…場所は」 「あ。えーと、そうだ、ここにしようぜ。この小屋の前。『嵐の夜に知り合った者です』が合い言葉な」 「『嵐の夜に』だけで十分だろう」 「あ、そか」 小屋を出ると、あれだけ荒れ狂っていた空は嘘のように静まり返り、少しずつ夜明けへと向かっていた。 「んじゃ、嵐の夜に」 彼はひょこひょこと片足を引き摺ってはいたものの、それでも軽快に丘を下っていった。 そして途中で一度振り返り、 「約束、忘れんなよ!」 と手を振り、その子供っぽい仕種に庵を苦笑させた。 「嵐の夜に、か」 偶然出会っただけの自分達が何故、などと思いながらも、昼の訪れをどこか楽しみにしている自分に苦笑しながら自らも帰路に就いた。 |