1月20日の花:キンギョソウ=でしゃばり
庵、マチュア、京/嵐の夜に




「庵」
峠へと向かう庵の背に、艶のある声が掛かった。
「どこへ行くのかしら?」
振り返ると、そこには側近の一人である山羊、マチュアが婉然とした笑みを浮かべていた。
「出不精の貴方にしては珍しいわね」
「貴様には関係のない事だ」
冷たくあしらわれる事に馴れている彼女はくすくすと笑い声を洩らす。
「良いけれど、峠に行くのならお気を付けなさい。あの辺りは狼が出るんだから」
「だからどうした」
「まあ、貴方ほどの実力ならそれほど心配する事じゃないとは思うけれどね。でも万一があると私がバイスたちに怒られちゃう」
貴方は八神の主なんだから。
けれど庵はそれに応えずさっさと踵を返して丘を上っていった。


目的の場所に辿り着くと、茂みの影からひょこっと狼が姿を現わした。
だが、その狼が庵に食らいつこうとする事も、庵が構える事もない。
「待たせたな」
「んにゃ、俺も今来た所だし」
がさがさと音を立てて全身を日の光の元に晒した狼は「あのさ」と庵を見る。
「そういやお互い、名前知らないよな」
何度も顔を合わせていたくせに、二人はお互いの名前を知らなかった。
お互い、「草薙」と「八神」で呼び合えばそれで事足りていたからだ。
だが、彼としては種族名ではなく、ちゃんとした個体名で呼び合いたいらしい。
「俺は京。お前は?」
「…京、だと?」
聞き覚えのある名に庵の表情が微かに動く。
八神一族では、当主の名を他の者に付ける事は出来ない。
それは草薙でも同じ筈。
「ククッ…そうか、貴様が…」
「な、何だよ…」
突然笑い出した庵に、京の体が僅かに退く。
「何の定めか…京、俺の名は庵だ。八神、庵」
すると京がぽかんと口を開き、目を丸くする。
「庵…?じゃあ、お前、もしかして…」
「そういう事だ」
京は暫く考え込むような素振りを見せたが、やがて「うん」と肯いて顔を上げた。
「ま、いっか」
どうでも良くなったらしい。
確かに今更そんな事がわかった所でどうしようもない。
京も庵も、この目の前にいる相手を好ましく思っているのだから。
「んじゃ、改めて宜しく、庵」
差し出された手。
庵はほんの僅かに笑みを浮かべ、それに応じようと手を持ち上げた瞬間。
「!京、」
「あっ、わかった!」
その気配を感じた京は咄嗟に森の中へとその身を躍らせる。
それと同時にやってきたマチュアが庵へと片手を上げた。
「庵」
「何だ」
僅かな苛立ちの篭もった声で応じると、マチュアは「言い忘れてたんだけど」とにっこりと笑う。
「この前、一人狼に襲われたでしょう?その子、ちょうど貴方のいる所に立っていたのよ。だから気を付けなさいね。誰かを待つなら茂みの中に出も隠れていなさい。まあ貴方が茂みにひっそり隠れている姿なんて想像も付かないほど滑稽だけどね!オホホホホホホホホ!」
彼女は言いたいだけ言うと高笑いを響かせながら来た道を下っていった。
「……」
何だったんだ、とその後姿を見送っているとかさり、と忍んだ音が聞こえて来た。
「…もう良いぞ」
「あー驚いた。つーかさ、さっきそこの岩の間から水が沸いてるのみつけたぜ」
「ああ、それは『イグスリの泉』だろう。食欲増進の効果があるといわれている」
「へー…ってやべっ!」
再び京が慌てて茂みへと隠れる。庵の肩越しに再びあの山羊の女が向かってくるのが見えたのだ。
「ちょっと庵、だからそんな所にいないで頂戴。もし狼がいたらどうするのよ」
「……暇なのか、貴様は」
「失礼ね、これでも貴方の事を心配してるのよ。貴方が負けるだなんて思ってはいないけれどね、余り『草薙』を刺激しないで頂戴。面倒な事になったら溜まったもんじゃないわ」
「そうか」
「もう、仕方ないわね。ああそうそう、せめてそこの金木犀の茂みの所にいなさい。あれは匂いが強いから私たちの匂いを嗅ぎ付けられる事はないわ」
「わかったからさっさと帰れ」
「もう、本当に分かっているのかしら?それじゃあね、庵」
再び踵を返して丘を下っていくマチュアの後姿に庵はやれやれと溜息を吐いた。
「…京」
吐き出すようにその名を紡ぐと、再び茂みから京が姿を現わす。
「場所、変えるか」
京の提案に頷き、二人は揃って歩き出した。
とその時。
「……」
いい加減にしろ、と言わんばかりの表情で庵は振り返った。
「また?!」
京が慌てて茂みに隠れる。
マチュア、三度目の登場だ。
「あら本当に金木犀の近くにいるのね、偉いわ」
「……」
偉いも何も、ただ偶然近くを遠っただけなのだが。
「あら、待ち合わせの子ってその子?」
枝の浅い茂みだったため、はっきりとした形は分からなくともそこに誰かがいるという事は分かってしまったのだ。
だが、幸いにもここは匂いの強い金木犀の傍らで、太陽も雲に隠れている。その為に京の正体が露見する事はなかった。
「私はマチュアよ。貴方は?」
「え、えと、ショウって言いマス」
「ショウ?聞いた事ないわね。ごめんなさいね、私、余り下々の者の名前って知らないのよホホホホホ!この子がまだ小さい頃からずっと先代に仕えていたのよ。けれどホラ、この子ってこの通り山羊に有らずな凶暴さでしょう?成獣前に先代を倒してしまってってそんな事八神の者なら誰だって知ってるわよね!まあ私はそれを人伝に聞いたのではなくてこの眼で見たんだけれどね!」
マチュアは二頭にお構い無しに話し続ける。
「それにしても狼の奴等、酷いわよね。幾ら私達が美しく美味だからって襲ってこないで欲しいわ。他の小動物でも狩ってれば良いのよ」
「そんなんじゃ足りねえって」
「え?」
「あ、いや、酷いなーって」
「でしょう?そもそも私はあの顔が嫌いなのよね。眼は釣り上がってるし鋭い牙は下品だし、特に先代!あれはもう最悪ね!今の当主はどんな子かは知らないけれど、どうせ碌な子じゃないわ。あの先代の息子なんですもの」
「そりゃ悪かったな」
「何か言ったかしら?」
「いや、その、ホント悪いヤツらだなーって」
「坊やもそう思うでしょう?」
そんなやり取りを眺めながら、庵はどうしたものかと思う。
京が、目に見えて苛立っている。
例えこの雌山羊が食われたとしても、庵自身は然して問題はないのだが、他の八神の者どもが黙っていないだろう。
「狼なんて、本当に私たちと同じ動物なのかしら、っていつも思うわ。あんなのとお近付きになりたい物好き、存在しないわよオホホホホホ!!」
ぴくり、と京の体が揺れる。
ぐっと前へと乗り出しかけた瞬間、庵は二人の間に割って入った。
「!」
するとその姿を見た京は踵を返し、森の中を駆けて行ってしまった。

 

 

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