2月4日の花:アワナズナ=君に捧げる 庵、京/嵐の夜に |
吹雪の勢いも衰えを見せた夜明け前。 白一色の静寂に包まれたその場所に、異変が起きた。 ある一点が突然もこっと持ち上がったのだ。 雪の塊はぼろぼろと重力にしたがって落ちていき、その下から現れたのは一匹の黒狼だった。 雪塗れになったその狼は雪の中から這い出すと、ぶるぶるとその身を揺すって纏わりつく白を振り落とす。 そして辺りを見まわしながら一歩一歩確かめるように彼は歩いていく。 時折雪を掘り返してはまた進み、また掘り返しては進む。 それを何度繰り返しただろう。 狼はふう、と溜息を吐いた。 「草、生えてねえなあ…」 そしてまたうろうろと探し始める。 狼の名は、京と言った。 「うー寒っ…早く戻んねえと庵が凍えちまう…」 庵というのは穴の中に残して来た山羊の名だ。 結局の所、京は庵を食べる事は出来ずにこうして彼の為に草を捜し歩いている。 食事をすれば多少なりとも体力が戻るだろうと。 けれどこんな雪山に草が生えている筈もなく。 「あーチクショウ…一旦戻るか…」 京が窖へと戻ろうと踵を返しかけたその時。 「!」 小降りになった吹雪の中、小さな金の光が幾つも登ってくる。 その光は紛れも無く、狼達の目だ。 「ちっ…アイツら、こんな所にまで…」 庵を見付けられてはならない。 京はその光に向かって山を少しずつ下りていった。 すぐに両者の距離は縮まり、お互いの姿が確認できるまでにまでになると双方静かに立ち止まった。 「京さん!!」 真吾が漸く見つけた主の姿に声を上げた。 「こんな所にまでご苦労なこった」 「京さん、帰りましょう!今ならみんな…」 「真吾」 京の静かな声に真吾は言葉を失う。 「庵が、自分の事食えって言ったんだ」 嬉しかった、と京は笑う。 「初めは腹立ったけど、庵の寝顔見てる内に、だんだん嬉しくなって来たんだ」 自分を食え、と言った庵。 「自分の全部を俺にくれるって言ったんだぜ」 それでも自分達が出会った事実が消える事はないと言った庵。 「俺は庵を食えなかったけど、でも庵の全部を貰った」 なあ、庵…今ならそう言ったお前の気持ちが分かる。 「だから、俺も俺の総てを掛けて庵を守る」 「それがお前の答えか」 「ああ」 社の問いに京は短く頷くと狼の群れに向かってその拳を掲げた。 「…行くぜ」 社が右手を上げ、大きく振った。 「捕らえろ!!」 雄叫びが上がり、たった一匹へと向かって狼達が殺到する。 それでも京を捕らえられるかどうか分からない。 それほどの力を持っているからこその当主なのだ。 その血統を絶やすわけには行かない。 「無傷で捕まえ様なんて思ってると怪我するぜ!!」 京が飛び掛かってくる狼達を次々に薙ぎ倒していく。 彼らは気付かなかった。 「…あれ?」 社の傍らでおろおろと成り行きを見守っていた真吾がそれにまず気付いた。 「や、社さん、何か、聞こえませんか」 「ああ?……何だ?」 低い唸り声の様な地響きが微かに聞こえてくる。 はっとして山を見上げたその先には。 「!退け!!雪崩だ!!」 話でしか聞いた事の無かった現象のその狂暴さに、社は声の限り叫んだ。 だが、既にすぐそこにまで白い波は迫っている。 「京さん!!」 咄嗟に真吾が京へと向かって駆け出す。 「あ…」 京は眼前に迫ったそこに、何を見たのか。 ふっと彼は微笑み、その唇が微かに動いた。 「京さぁぁんっ!!!!」 後少しで彼に手が届く、その直前。 それはもうもうと雪煙を上げながら大きな雪の川となり、全てを飲み込んだ。 「…ぅ…」 微かな呻き声を上げ、庵は目を覚ました。 「……」 生きている。 京は俺を食わなかったのか。 京は何処へ行ったのだろう。 そんな事をぼうっと考えながら雪を見上げていた庵ははっとした。 雪が光を反射して輝いている。 「!」 ぼこりと雪を押し上げて外へ出ると、吹雪は嘘のように止んでいた。 そして空には太陽が輝き、視界が開けて昨日までは見えなかった景色を映し出していた。 「…森が…」 遥か下方の山に緑溢れる森が広がっていた。 森は、確かにあったのだ。 庵の胸に、例え様の無い喜びが溢れる。 「そうだ、京は…」 彼はこの景色をもう見たのだろうか。 「京!」 近くにいるだろう彼を庵は呼ぶ。 「京、何処にいる、京!!」 一匹の山羊は、いつまでも、いつまでも、叫び続けていた。 |