3月1日の花:スノードロップ=恋の最初のまなざし
??/その他




その力は大きく、時として自身の意に反して川を氾濫させ、山を枯らし、大地を乾きへと導いた。
だがそれは妖怪変化の類に近かったが穏かな気性を持ち、彼の高天ヶ原を追放された男神とは違い、他の神々たちからの信用も厚かった。
それは自ら首を分かち、己の力を抑えた。そして己の力を象徴する剣に天照大神から授かりし勾玉を結わえ、そこから眷属神が生まれた。
眷属神はそれの塒である高志ではなく、里近くの山にて庵を結び、村とそれとの繋ぎを主とした。
その力が穏かさを手にして暫く。その力の波が川を潤し、山を繁らせ、大地を肥やした。
けれど長くは続かず、時折災害を招いては村村を押し流していた。
天照大神はそれに告げた。魂振りの儀を行なう可と。
高い霊力を持つ八人の生娘を喰らい、その力の安定を図れと。
選ばれたのは、国つ神の大山津見神の子、足名椎(あしなづち)神とその妻、手名椎(てなづち)神の八人の娘達だった。
一つの年に一人。娘は人柱となってからはその力が暴れ出す事も、大地が枯れる事も無くなった。
御魂振るその儀の時のみそれは本来の姿となり、娘の前に現れる。
その姿は身一つに八つの頭と八つの尾があり、その目は赤かがちの様。空には常に叢雲立ち込め、その身の長さは八つの谷、八つの峰にわたり、その腹は尽く常に血が滲んでいるという。
それの名を、八俣遠呂智という。


誰か、いる。
山を一人見廻っていた叢雲は、見知らぬ気配に辺りを見廻した。
川の方だ。そろりと木々の間を抜け、河原へと向かう。
微かに聞こえてくる水音。
一人の少女が衣を洗っていた。
薄い浅黄色の着物を纏い、長い黒髪を結わえた少女。
桶にはもう何枚もの衣が絞って積み重なっている。今洗っている衣が最後の一枚らしい。
「?」
視界の端を掠めたのだろう、少女が顔を上げて叢雲を見た。
一瞬少女は驚いた顔を見せたが、すぐに破顔する。
「お役目ご苦労様です」
「…私が誰だか、知っておるのか」
少女は近付いてくる叢雲に脅える事もなく肯定する。
「この山には遠呂智と我らを介する二神が降りてこられていると聞き及んでおります。そのお一人の都牟刈(つむがり)様でしょう?」
「よく私が都牟刈だとわかったな」
「都牟刈様は武神、麁正(あらまさ)様は月神だと聞き及んでおりましたのですぐに分かりました」
「そうか…。名は、何と申す」
すると少女は慌てて謝罪した。
「申し訳ございません、名乗りもせず…!」
そして少女は花の様な微笑みを浮かべた。
「足名椎神と手名椎神が八の娘、奇稲田比売(クシナダヒメ)と申しまする」
遠呂智の寵愛を一身に受ける天叢雲命。
魂振りの儀、最後の人柱の奇稲田比売。
歯車は軋んだ音を立てて回り続ける。

 

 

戻る