3月2日の花:シンビジウム=野心
??/その他




『導きの想い』

いいえ、全くではございませんが、然程恐ろしくはございません。
黄泉国へ行くのであれば恐ろしいです。
ですが、魂振りの儀によって私はこの大地に、川に、山になる。
すくすく、すくすくと育ちますように。
その礎となる。葦原中国の豊穣への導きとなる。
とてもうれしゅうございます。
ただひとつだけ。
みなと話せなくなるのが少しだけ寂しゅうございます。
都牟刈様ともお話しできなくなってしまう。
それは少し、寂しゅうございます。


『老夫婦の祈り』

ああ、またこの季節がやってきてしまった。
最後の娘もいなくなってしまう。
老夫婦は嘆いた。
すると、その嘆きに誘われて一人の巫女が現れた。
伊斯許理度売命の使いだと彼女は言う。
そして水の注がれた皿を指差した。
そう嘆く事はない、これを見よ。と。
そこに浮かび上がるは遠呂智の剣と愛する末の娘が穏かに言葉を交わす姿。
遠呂智の剣を使えば良い。
さすれば娘は人柱になる必要もない。
もうすぐここに一人の武神が現れる。
何よりも猛々しい、荒ぶる神だ。
これから私が告げる事、それをその神に告げよ。
その武神が遠呂智から娘を守ってくれよう。


『公私の境目』

森の見廻りの後、河原で奇稲田比売と会うのが日課となった。
取り止めもない言の葉を交わし、それだけで時間が過ぎていく。
限られた神としか言葉を交わした事のなかった身にとって、それは穏かな時だった。
ある時、奇稲田比売の傍らに見知らぬ女がいた。
彼女は嘆いていた。少女が大蛇の生け贄となる事を。
胸が痛んだ。
奇稲田比売は人柱となる事を良しとしていた。
だから今まで敢えて考える事はしなかった。
哀しむ者がいるという事実を。
女は切に訴えた。
大蛇を酒で酔わせて前後不覚に陥らせ、我に返った時には娘はもう貴方の腹の中にいるではないかと偽る事で回避できないかと。
愚かな事を。そんな戯れ言が我が主に通ずると思うてか。
どちらにしろ娘を喰わなくては村は災害に襲われる。
だが女は嘯く。それを防ぐ手立てはあると。
その眼にもう涙はなかった。
女の言葉は続く。貴方は何もしなくとも良いのです。ただ、どれほどの酒を用意すれば彼の大蛇が酔いつぶれるのか、そっと教えて下されば。
これは裏切りでもなんでもありません。
貴方の主は人柱なくとも災害を起こさずに済み、奇稲田比売もその身を捧げなくとも済む。
良い事ばかりではありませんか。
視線を女から少女へと移す。
少女も途惑った視線でこちらを見ていた。
全てを決めるのは、自分の言葉なのだと知る。
都牟刈様、さあ。
女の促しに、唇が震えた。

 

 

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