3月3日の花:アセビ=犠牲
??/幼少期




八俣遠呂智は魂振りの儀の時のみ、その本来の姿を現わす。
分けられた八つの首も戻り、剣と勾玉も然り。
その大いなる姿へと戻れば忽ちその頭上には叢雲立ち込め、驚咢しさを増す。
高志から現れたその姿に、足名椎神と手名椎神は身を寄せ合って祭壇に鎮座する八人目の娘の後姿を見守った。


「祭壇にスサノオの姿を見付けた叢雲は、女の言う「災害を起こさない為の手立て」がどういうものかを悟った」
災害の元を絶ってしまえば良い。
そう、八俣遠呂智を倒してしまえば良いのだ。
その為に須佐之男命がこの場にいるのだ。
「だがもう時は既に遅く、オロチに全てを打ち明け、止めようとした叢雲はスサノオによって防がれてしまう。真名じゃ。眷属神が幾つもの名を持つのは真名を知られぬ為。真名は、その者を支配するには欠かせぬもの。じゃが、叢雲と八尺瓊は二人で一人。八尺瓊の真名も知らなければ支配する事は難しく、そもそもスサノオは叢雲の主ではない。その為に然程効果を齎さない筈であった。しかしその時の叢雲は動揺と混乱に満ちていた。その心の隙に付け込まれ、スサノオに絡め取られてしまった」
叢雲の目の前で酒が振る舞われ、大蛇は酔いつぶれる。
そして十握剣を抜いた須佐之男命に叢雲は叫んだだろう。
止めてくれ、後生だからと。
「スサノオは心底、武の神じゃ。傲慢で強を好み、欲しい侭にする」
須佐之男命は八俣遠呂智を切り裂き、そこから天叢雲剣と八尺瓊勾玉を得た。
巫女は沈黙した剣から勾玉を取り上げ、その力を利用して遠呂智を封じた。
全てが終わった後に勾玉は剣に結わえ直されたが、剣と勾玉が人の形を取る事は二度となかった。
「スサノオは己の持つ十握剣より強い剣とその力を御する為の勾玉を手に入れた。八咫鏡の巫女は厄介払いが出来た。足名椎神と手名椎神には娘が残った。万々歳というわけじゃ。彼らにとっては、じゃがの」
「クシナダは何も言わなかったのかね」
向かいに座る、この和室に似つかわしくない風体の男はそう問う。
「クシナダは仮にも三貴子であるスサノオに口答えできるほど気の強い娘ではなかったのだろう。人柱となる事を是としたくらいじゃからの」
「では八咫が全ての元凶と?」
「いや…。高天ヶ原から葦原中国へと降り立った八咫鏡はその地を護るものとして奉られていた。だから八咫鏡はその地を脅かす存在を排除した、ただそれだけの事。そして八俣遠呂智とて己の力の暴走を良しとしていたわけではなかった。その為の最低限の犠牲としての人柱じゃった。仕方ないと言えぬ事もない。それを思うのならばスサノオが全ての元凶であるやもしれん」
八俣遠呂智を倒し、奇稲田比売を娶った須佐之男命は叢雲と八尺瓊をただの武器とその制御装置として終わらせる事はなかった。
「スサノオはクシナダの腹に宿る赤子に剣と勾玉を宿らせた」
そして奇稲田比売が産み落とした八島士奴美(ヤシマジヌミ)神は二つの記憶の継承と共にその体から自在に天叢雲剣と炎を呼び出し、操った。
そして八尺瓊勾玉は心の臓に宿り、天叢雲剣の大いなる力が八島士奴美神を喰らってしまわぬ様に抑える働きをした。
「じゃが代を経るごとに剣を繰る力は記憶と共に薄れていき、剣は拳と成った。草薙家は剣を、八尺瓊家は勾玉をそれぞれ奉っておったが御神体そのものは代々草薙家当主がその身に宿していた。とは言っても当主の体を切り裂けば体内から剣と勾玉が出てくるわけではなく、単に当主の繰る炎にのみ払う力と封じる力が宿っていたからそう言われておったのじゃろうて」
だがある時、生まれて来た双子に当主は驚愕した。
「力が分かれて生まれて来たのじゃ」
先に生まれた子に剣の払う力が。
後に生まれた子に勾玉の封じる力が。
二つの炎が生まれてしまった。
話し合いの結果、勾玉の力を受け継いだ子を八尺瓊の養子として育てた。
そして周りの思った通り双子の力は歴代の当主の誰より強い炎の力を生み出せた。
「じゃがその強い力故に、オロチの呼び声を聞いてしまった」
皮肉にも、その声に気付いたのは誰より八俣遠呂智に寵愛された叢雲の力を継ぐ子ではなく、その陰であった八尺瓊の力を継ぐ子の方だった。
「八尺瓊の方がそういった力に長けているからの。そして八咫の護る封印の一つを解き…後は以前話した通りじゃ」
ふう、と彼は一つ溜息を吐いてテーブルの上の湯呑みを手にする。
緑茶は長話に飽きたと言わんばかりにすっかり冷めてしまっていた。
「淹れなおしてこよう」
立ち上ろうとする彼を構わん、と男が止めると同時に玄関の開く音がした。
そしてばたばたと慌ただしく廊下を走る足音。
「いつから来てたのルガールおじさん!」
現れたのは、詰め襟姿の少年だ。
「京、廊下を走るなといつも…」
「うっせえ、テメエにゃ聞いてねえんだよクソオヤジ。おじさん、いっつも前触れも無しに来るんだから!今日来るって知ってたら中学なんて休んだのに!」
男の隣りに腰を下ろし、拗ねたように唇を尖らせる少年に紫舟は溜息を吐き、そして男は穏かに笑った。

 

 

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