3月5日の花:リュウカデンドロン=閉ざした心
庵、京/2002




まさか自分たちにそんな事が降りかかるなんて思っても見なかった。
ネスツだのクローンだの常識外れな世界に足突っ込んでたせいもあってか、そういう事をすっかり忘れていた。というか、油断してたのかもしれない。
だから俺は電話を受けた時、ナニソレ?って思った。
とどのつまり。
車道に飛び出したみづきを庇って庵が車に轢かれた。
あー、庵も人間だしなあ、一応。
放心した思考の彼方にそんな言葉が浮かんだ次の瞬間、例えようもない恐怖に襲われて。
自分達にもそういう事は十分有り得るのだと思い出した。


京が病院に辿り着いた時、庵は病院の白いベッドの上で眠っていた。
そしてその庵に庇われたみづきは足と腕に軽い擦り傷を作った程度だったが、京の顔を見て気が弛んだらしい。ナースが差し出してくれたティッシュを目元に宛てながら、泣き声こそやんだものの、今も京の膝の上でしゃくりあげている。
「は?」
医師の言葉に、みづきの背を撫でていた手が止まる。
医師の説明では、庵の怪我は全身の軽い打撲と右腕の骨にヒビ、あとは頭の傷だけで命に別状はないという。
それは分かった。
そして先程まで起きていたがまた眠ってしまったという。
それも分かった。
だが、それに続いた言葉は京の理解の範疇を越えていた。
「つまり、記憶喪失、っつーこと?」
そうではない、と医師は丁寧に分かりやすく説明してくれた。
簡単に纏めると、病室に移されてすぐに目を覚ました庵の意識ははっきりしていたし、自分の名前も名乗った。だが、その時はまだ治療中で別室に居たみづきの無事を告げると、自分に子供は居ないと言う。
そして、子供を庇った覚えもないと。
今がいつなのか分かるか、という問いには訝しげな表情で八年前の日付を答えたという。
京はぽかんとして医師の言葉を聞いていた。
一時的なものとは思いますが、彼の記憶が八年前にまで遡っている可能性があります。
アレですか、いわゆる記憶喪失ってヤツだったりしちゃうんですか。
つーか八年。八年前ってオイ。
俺と再開するちょっと前にまで戻ってるってどうよそれ。
何かムカツクんですけど。
そんな京に、医師が保険証や着替えなどを持って来いというような指示を色々と出したのだが。
「………は?」
ぽかーんとしていた京が理解するまでに、医師は何度も同じ事を説明する羽目になった。

 

 

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