3月12日の花:スイートピー=私を覚えていて
庵、京/2002




怖かった。
今の彼があの家に帰ってしまう事が何より怖かった。
自分との事を忘れたままの彼があの家に帰ってしまったら、もう二度と会えない気がして。
それだけは、嫌だ。


京の呪により強制的に眠らされた庵が目を覚ます頃には、部屋はきっちりと結界で囲まれていた。
マンションから出る事は勿論、このワンフロア全てを使った部屋から出る事も出来ないという事だ。
始めこそ結界破りを試みたが、京大と京也の気楽さに毒気を抜かれたのか、それから五日。庵は京の好きにさせている。
自分の記憶が京と再開する前にまで退行しているとはいえ、結局は記憶の回路が配線ミスしただけの事なのだろう。庵はそう思う。
みづきを邪険に振り払ったり京に対して強く出られないのは恐らくそういう事なのだろうと。
「……」
軽くノックする音に庵は視線をドアへと向ける。
返事を待たず入ってきたのは、食事の乗ったトレイを手にした京だ。
目の下の隈が、また少し濃くなった。
京の顔を見て庵はそう思う。
喜怒哀楽を内へ閉じ込めてしまった表情は強ばったままだ。
あの独特な声も、この五日間聞いていない。
「京」
食事をチェストに置いて出て行こうとするその後ろ姿に声をかける。
ひたり、と京の足が止まる。
「貴様は食べたのか」
振り返った京の眼は、僅かな驚きを湛えて庵を見た。
大きな瞳を更に大きく見開いたまま京はふるふると首を左右に振る。
食べていない、ではなく、要らない、と。
「ここへ来い」
自分の傍らを叩くと、京は戸惑いの眼差しで庵を見た。

 

 

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