3月13日の花:イトズイセン=思い出 庵、京/2002 |
「京」 再度の呼びかけに京がゆっくりとこちらへ歩みを進める。 「座れ」 「……」 促されるままに庵の隣に腰を下ろす京。その視線は気まずげに逸らされたままだ。 「他の奴等はどうした」 目を覚ましたときには既に感じなかったみづきたちの気配。 「……」 言葉を乗せようと薄らと開かれた唇。 けれどそれは逡巡するように震えるだけで一向に音を乗せようとはしない。 それでも庵が待ち続けると、漸く数日振りの音色が室内に響いた。 「…お袋に、預けてる…」 「そうか」 そして再び閉ざされた唇。 己の足元を見下ろしている京の横顔をじっと見詰めていると、その視線に耐え兼ねたのか京が再びゆるりと唇を開いた。 「…昔読んだ漫画にさ、主人公の女が記憶喪失になっちまう話があったんだ」 「……」 「記憶を失った事でお互いに悩んだり喧嘩したりして…結局最後まで女の記憶は戻らなかったんだけど、ハッピーエンドだった」 男は女を優しく抱きしめて告げた。 思い出なんて、また作っていけば良いじゃないか。 君が居てくれればそれで良いんだ。 二人でまた、一からやり直そう。 「結構、胸打たれたんだけどさ、でも、今は…」 その男は、本当にそう思えたのだろうか。 男には変わらずに以前の記憶はあるのだから、一からやり直すのは女だけだ。 それまでの思い出を全て白紙に戻して? 「そんな事、思えねえよ…」 これから築いていく物がどれだけ素晴らしい物であっても、愛しい物であっても。 失った過去と同じ物など築けやしない。 それ以上とか以下とか、そんなこと関係ない一点モノの記憶の集まり。 「体と心と記憶、どれか一つでも欠けるなんて俺は嫌だっ…」 ぎゅっと膝の上で握られた拳。だがすぐに弛緩して京は小さな溜め息を吐いた。 「…悪ぃ。こんな事言ったって、仕方ねえよな」 肩を落とし、背を丸めてそう呟く姿はひどく小さく見えた。 「…溜めているもの全て吐き出してしまえば良い。留めておいた所で膿むだけだ」 低く告げた庵の言葉に京の背がぴくんと震えた。 再び強く握られる拳。 「っ…!優しくすんじゃねえよ!!」 その背を更に丸め、俯いて叫ぶその姿に手を伸ばすと、乾いた音を立ててその手は払い除けられた。 「…っ……、……っ…、……」 起こされた上背。こちらへと向けられた視線。 その眼は多色が入り乱れ唇は言葉にならぬ何かを紡ごうと震える。 「京」 「ーーー!!!」 その唇は声にならない喚きに戦慄き、右手が庵の頬へと向けて空を切った。 |