4月2日の花:スターチス=永久不変
京/2002




遠ざかっていく幼い庵の背。
やがて闇に紛れ、完全にその姿を見失ってしまった。
庵!
京の叫びがただ闇に響く。

「喧しい」

突如としてかかった声に京は体ごと振り返った。
…いお、り?
目の前に立つ男の姿に京は首を傾げた。
顔立ちこそ庵と酷似しているがその髪は黒く、灰色の狩衣を纏うその体も幾分か細いような気もする。
何処かで…
「まだ分からぬか」
呆れたと言わんばかりの視線に京がはっとする。
八尺瓊、か…?
「ようやっとわかったか。うつけ」
どうしてここに居るのかと問えば、彼はやれやれと溜め息を吐いた。
「迷子になっておる阿呆の面を見てやろうと思ったが…間も抜けていると来た」
なんなんだよさっきから。
「貴様とは違い、『八神庵』の記憶は未だ『庵』と『八尺瓊』に分かれたままだ。例えるなら記憶という衣を行李の奥に仕舞い込んでいるようなもの。それが貴様の眼には『私』として映っているのだ」
…わけわかんねえ。
「うつけは死んでも直らぬという事がようわかった。…庵の別人格のようなものでも思うておけ。先程貴様が小童と認識したものも同じく」
あっ、そうだ、そいつ、何だったんだ?
「あの小童はお前が探すモノの場所へと向かうための『道』そのものだ」
道?
「貴様の頭で分かるように言うなら…そうさなぁ、庵自身と記憶を繋ぐ管のようなものだ」
管?
「そう…思い出そうという行為とその記憶を繋ぐ役目をする存在というべきか。事故の衝撃でその一部が欠けてうろついておる。それがあの小童よ。故に貴様と再会してからの記憶は引き出せぬが昔のように憎むことも出来ない」
つまり、あいつをどうにかすれば庵の記憶は戻るのか?
「そういう事だ」
でも、どうすれば良いのかわかんねえ。
「どうしようもない。ここは貴様の領域ではない。さっさと帰ることだ」
そういうワケにはいかねえ。
「ならぬ。長時間の夢埋の行使は貴様の精神だけでなく我らとて少なからず傷を負う」
だけど…!
「聞け。貴様はここでは異物だ。故にこれ以上は何も出来ぬ。だが私は違う。どういう事か分かるか?」
…あんたが、やってくれるのか?
京の問いに彼は僅かに唇の端を持ち上げた。
「…行け」
すっと彼の腕が持ち上がり、京の背後を指差す。
振り返ると、そこに一筋の光が現れた。
「そこが逸早く帰ることが出来る」
わかった、と一度は踵を返した京が再び八尺瓊へと向き直る。
…ごめんな。
八尺瓊はその意を解し、阿呆、と唇を歪めて笑う。
「一千も昔のこと、とうに水に流してしまったわ。早う行ってしまえ」
再び光の筋を辿り始めると、八尺瓊の声が何処からともなく響いた。
「我らはこれまで幾度と無く生と死を繰り返してきたが、一度とて添い遂げることは出来なかった」
やがて入り込んだ時と同じ、何か膜のようなものに突き当たって形容しがたい感覚に包まれる。
「最早諦めていた。これが定めなのだと。報いなのだと」
けれど。
少しずつ響いていた彼の声が薄まっていく。
自分を象っていたものがその膜を抜けていくと同時に拡散していく。
「もう一度くらいならば、願っても良いのかも知れぬ…最近は、頓にそう思う」
今生こそは……



全てが、溶けた。

 

 

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