4月8日の花:アンスリウム=飾らない美しさ
クリス/97




暫くして、剣と勾玉が御座を離れたと聞いた。
御座どころか高志からも。
どうやら山一つ向こうに腰を据えるらしかった。
今で言うなら秘書というより、受付係って感じだ。
僕からはこれといって関わろうとは思わなかったけれど、時折彼らが高志に訪れているのは何となく感じていた。
いや、彼ら、じゃない。彼、か。
遠呂智の元へ参じるのはいつも兄神とされる剣だけだった。
いつも感じる気配は武の気配だけ。月の気配は感じなかった。
彼らがそれをどう捉えているのかは知らないけれど、まあ、僕には関係ないし。
そんな事を思いながら過ごしていたある時、剣と出くわした。
どうやら山林をうろついている内にここへ辿り着いたらしい。
傍らには、老木で出来た亀のような姿をした「風」の首がいた。
剣はすぐに僕の存在に気付いてじっとこちらを見ていた。
どう声を掛けたものか、そんな顔をしていた。
そして徐に風の首を振り返り、
「飛び梅、あれは火の首か」
「そうだ」
飛び梅?
聞きなれない言葉に僕の気持ちは向かった。
「『飛び梅』?」
僕が鸚鵡返しに問うと、剣は何の気無しに風の首を指差して言ってのけた。
「此奴の名よ。名が無いのは不便じゃからの」
私がつけた、と彼は笑う。
名前が無いと、不便。
そんな事、考えた事も無かった。
僕らには名前が無いのが当たり前だから。
だって、誰だって自分の手足に名前をつけないでしょう。
それと同じで、遠呂智に八俣遠呂智という字があってもその首でしかない僕らには名前など無いのだ。
なのに、同じ首である風が「名前」を得ているのが羨ましかった。
名があるだけで僕らとは違う存在に見えた。
個々として存在することを許されているような。
そんな手形の様に思えたのだ。
そこで漸く僕は自分に対して強いコンプレックスを抱いている事に気付いた。
僕という自我は存在するのに、個々として存在できない。
それともこの自我だと思っているそれすら遠呂智の欠片なのだろうか。
僕の沈黙をどう取ったのか、彼は「そうだ」と手を打った。
「お前も名があった方が何かと便利だろう。どのような名が良いか」
頼んでも居ないのに彼はうーん、と唸りながら考える。
「勝手に決めるでない」
気を概したような声音で言うと、彼はきょとんと目を見張った。
「何だ、もう名があるのか?」
「そうではないが…」
「では良いではないか。気に入らなければそれで良い」
あっけらかんとする彼への対応に困った僕が風の首へと視線を向けると、風の首もまた「止めても無駄」という眼をしていた。
そんなアイコンタクトにも気付かない彼は「そうだ」と目を輝かせて僕を見た。
「火影はどうであろう」
「ほかげ?」
心の中でもう一度復唱してみる。
火影。
「…気に入らぬか」
途端、しゅんとしてしまう彼に、僕は慌てて首を左右に振った。
「そうか」
一転して笑みに綻ぶ彼の屈託の無い表情。
「では、今この瞬間からお前は火影だ。私の事は叢雲とでも字の都牟刈とでも好きに呼んでくれ。宜しく頼む」
火影。
これが僕の「名」。
僕を表す言葉。
それは、僕が僕自身を得た瞬間だった。

 

 

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