12月13日の花:ベアグラス=いつものままでいて下さい
庵京/96




その慟哭が、今も耳に付いて離れない。
喉を突き破り、その身を引き裂き、そしてこの身すらも貫かんばかりの悲痛さ。
あの時、扉一枚隔てた先で京は泣いていた。
ただひたすらに、あの男を想って。


庵はマンションの前に辿り着くとその建物を見上げた。
ここ一ヶ月ほど習慣となったその行為。
視線の先には、自分の部屋の窓。
灯りは、灯っていない。
「……」
庵の形のよい眉が微かに寄せられる。
そして彼は足早にエントランスホールを抜け、エレベーターに乗り込んだ。
庵は一ヶ月ほどからペットを一匹飼っている。
名を京という、何よりも高級なペットだ。
前の飼い主に捨てられ、本来の家にも帰らず野良になろうとしていた所を拾ってやった。
従順で大人しい京。
それこそ借りて来た猫の様に。
声を荒げて怒る事も、腹を抱えて笑う事も、花が綻ぶように微笑む事も無い。
ただじっと部屋に篭もり続け、何かを考え続けている。
恐らくは、あの男の事を。
そんな姿が見たかったわけではないのに。
エレベーターが指定した階に辿り着き、扉が開かれる。
庵は足早に自室の扉の前へと向かい、鍵を開ける。
鍵は閉ざされていた。
京に合い鍵は渡していない。
京は、この中に居る。
「……」
心の何処かで安堵した自分を打ち消し、庵は靴を脱いでリビングへと向かった。
「…起きていたのか」
カーテンの開け放たれた窓から月の光が冷たく注いでいる。
ソファの上で膝を抱えていた京がふと頭を上げ、その視線を庵へと向けた。
「…俺、出てくわ」
その声は独り言の様に小さかったが、それ以外の音が無いこの空間では十分だった。
「このままだと俺、ここに居ついちまいそうだし」
そう告げて彼は首輪を外し、ローテーブルの上に置いて立ち上る。
「待て」
すれ違い様に腕を引き寄せられ、京は抵抗らしい抵抗もせず庵の腕の中に納まった。
「俺、もうお前のペットじゃなくて、お前の嫌いな「草薙」だぜ?」
それでも京を捕らえる腕の力は弱まりを見せない。
「貴様でなければ、意味が無い」
呼ばれるままに歩み寄り、与えられるままに飢えを満たし、乞われるままにその体を開く。
視線はいつも伏せがちで、表れる感情は小波の様なそれ。
そんな従順な愛玩動物が欲しかったわけじゃない。
些細な事で喜怒哀楽を紡ぎ、軽やかに、そしてしなやかに腕の中から擦りぬけては舞い戻る。

――やくそくだよ、いおりとユキと京の三人で…

そんな彼だからこそ、求めた。
「『俺』で良いのか?」
僅かに体を離すと、見上げてくる視線とぶつかった。
そこに先程までの色褪せた光は無く、常に記憶にある彼の眼だった。
真っ直ぐに思考の奥深く深くまで入り込む強く透き通ったそれ。
「言った筈だ」
庵はまるでそれに引き寄せられるように唇を重ねた。
「貴様でなければ意味が無い、と」

 

 

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