白雪



「あれ?クリス様?」
 草原の向こうから一人で歩いてくるその見覚えのある姿にセシルは首を傾げた。
「あれれ?でもクリス様、さっき道具屋さんから出て来たの見たんだけどなあ?」
 そう一人で首を傾げている間にも、視線の先の女性は少しずつ近付いてくる。
 明らかにこの城を目指すその女性の腰まで流れる髪は輝く銀。
 服装こそ鮮やかな空色の旅装束だが、以前に見たクリスの御忍び姿の時に酷似している。
「う〜ん?」
 じーぃっとその女性を見て居ると、すぐそこまで来て漸く見られている事に気付いたらしい彼女はセシルの方へと視線を向けた。
「あ、やっぱり瞳の色も紫色です〜」
 だが、間近で見てみると確かに良く似てはいるが微妙に違っている。
 姉妹か何かだろうかと思って首を傾げていると、彼女はにっこりと笑ってセシルの前に立った。
「ねえ、ここよね、ビュッデヒュッケ城って」
「はい!そうです!!あの、もしかしてクリス様のお姉さんとかですか?」
 傾げていた首を反対側へと傾げて問うと、彼女はけたけたと笑ってそれを否定した。
「何、私ってそんなにクリスに似てるの?」
「はい!もうすっごく似てらっしゃいます!!」
「ああそうなんだ。私、そのクリスがどこに居るのか知りたいんだけど」
「クリス様ならお部屋か会議室の方にいらっしゃると思います!私、案内しますね!!」
 ぴしっと姿勢を正し、屋敷へと導いていくセシルの後について彼女は城の中へと足を踏み入れていった。


「…それで、これからの事に付いてだが」
 会議室にはヒューゴを始めとするそれぞれの継承者、そしてアップルとシーザー、更にはそれぞれの重役が集まって今後の話し合いを始めていた。
『あのあのあの!今は会議中だと思うのでお邪魔するのは…!』
 扉の向こうから聞えてくるセシルの焦った声にクリスは言葉を止め、扉へと視線を向けた。
 すると、
 ばったーーんっ!
「ハァイ!湿気たツラ並べて会議ってるわね?!」
「あああ皆さんすみません〜〜!!」
 慌てふためくセシルを従え、威勢良く扉を叩き開いて入って来たのは、何とクリスに酷似した女性だった。
「ハーイ!噂のクリスちゃ〜ん手を上げて〜って発見!!」
 ずびしっと彼女は上座に座るクリスを指差して、何が可笑しいのかケタケタと笑い出した。
「あらヤダ!ホントに私そっくりだわ!!アハハハハ!!」
 クリスに外見がかなり似ているだけに、その光景は奇怪だった。
「き、貴様突然乱入して来た上にクリス様への暴言、不敬に値する!!」
 当然のように真っ先に沸騰したのはボルス卿。
「ハイハイごめんなさいね〜。アラ!ゲドじゃない!居るだろうとは思ってたけどホントに居たわイヤァねえ〜!」
 さらりとボルスをあしらって、彼女はクリスの向かいに腰を据えているゲドに声を掛けていた。
「貴様!」
「お黙りなさい!」
 更にいきり立ったボルスを真顔に戻った女が一喝した。
「っ!」
 クリスに酷似したその顔で怒鳴られたボルスは、納得が行かないまま渋々と席に就いた。
「それで、何しに来たんだ、
 静かな声に問われ、と呼ばれた女性は「そうよ」とゲドへと向き直る。
「ついうっかり忘れる所だったわ。いや余りにも愉快な面子だったからさ」
「ゲド殿、その…この方は一体…」
 恐らくこの中で一番彼女の出現に途惑っているのだろうクリスの問い掛けに、の悲鳴じみた叫びが会議室に響いた。
「何てこと!私の事が分からないのね?!」
 彼女はつかつかと机に歩み寄り、パーシヴァルとボルスの間に割って入るとばんっとその机を両手でぶっ叩いた。
「私のことを忘れているなんて…」
 くっと悔しげに顔を歪めるに、クリスは自分が悪い気がしてならない。
 が、それは数秒後に間違いだと気付く事になる。
 彼女はぐっと拳を握り、熱弁しだした。
「やっぱり高い高いをした時に高く投げ飛ばし過ぎたのが悪かったのかしら?!それともその時に天井に頭をぶつけたのに驚いて受け取り損ねたのが悪かったのかしら?!だってまさかあの屋敷の天井にまで貴方が吹っ飛ぶとはさすがの私も思わなかったのよ!それ以来「私って実は怪力だったのかしら」って悩んだわ!確かによく考えてみれば私ってばゲドにもにもワイアットにもゼポンにすら腕相撲で勝ってたわ!もう負け無しよ!!でもたったそれくらいで自分が怪力かも、だなんて誰も思わないでしょう?!」
 でしょう?!と言われましても…。
「ええ、と…私の血縁者かなにか、と解釈して宜しいので…」
 控え目にそう進言すると、彼女は「まだわからないの?!」とさも驚いたといわんばかりに仰け反った。
「ある時は炎の英雄を支え!ある時は愛する男の健気な妻となり!ビネ・デル・ゼクセのご近所さんからは「ライトフェロー夫人っていつまで経ってもお若いのね」と羨まれた私は、そう!!」
 そこまで語られて漸く誰だか気付いたクリスは「まさか」とがたりと立ち上った。
「ワイアット・ライトフェロー最愛の妻!アンナ・ライトフェローよ!因みにアンナは偽名なの(ハァト)」
 ぐっと親指を立てるに、クリスを始めとする会議室内の殆どの者が目を見開いた。
「……ゲ、ゲド殿…」
 クリスは真偽の程の判定をゲドに求める。
「……」
 だが、彼は聞くな、と言わんばかりに視線を逸らしてしまった。
 つまり、それは。
「じゃあ、貴方が…」
 震える声でクリスがを見ると、彼女はハーイ!と挙手して宣言した。
「私がクリスのお母さんでーっす!」
 その明るい声も、クリスにとっては死刑宣告に近かった。


「それで、貴方も真なる紋章の継承者である、と」
 取り敢えず騒ぎが落ち着き、サロメはゲドの隣りにどっかと腰を下ろしたに確認した。
「ええ、そうよ。真なる白雪の紋章。白雪だなんてもう私の事みたいよね!!いやんもう!何言わせんのよ!」
 自分で勝手に言いまくってるくせに、はバシバシと隣りに座るゲドの腕を叩いている。
 ゲド自身はもう馴れているのかされるがままだ。
「あ、能力としては軽く雪や霰や雹を降らせたり、雪崩起こしたり氷柱落したり雪だるま落す事だってお手の物よ!」
 こんなユカイな紋章、私の為に有ると言っても過言じゃ無いわよね!
 そう言って彼女は何が可笑しいのかまた笑い出した。
「白雪、ですか。初めて聞きますね…」
 サロメは逐一彼女のテンションに構っていられないと判断したのだろう。余計な所は聞かなかった事にして話を進めた。
「そりゃあワイアット以上に逃げ隠れして来たもの」
 そこで初めて彼女が大人びた笑みを浮かべた。
「ああ、そうよ。ワイアットで思い出したわ。ねえゲド、水がクリスに宿ってるみたいだけど、ウチの旦那、どうなったの?」
「……」
 その言葉にクリスは唇を噛み締めて俯いた。ゲドも何も言わないが、その沈黙に、彼女は己の最愛の男の行方を知った。
「そう、死んじゃったのね、あの人」
 誰もが口にしなかったそれを、彼女は平然と口にした。
「貴方は…!」
 その余りにも軽い言い草にクリスががたりと席を立つ。
「貴方は哀しくないのか!」
「哀しいわよ」
 けろりとして彼女はそう言い返し、そしてまたあの大人びた笑みを浮かべた。
「哀しいからって哀しい顔をしたり泣いたりできるほど、もう若くないのよ、私」
「…しかし…彼は貴方を…」
「あの人ったらね、私が真なる紋章の継承者だって気付かなかったのよ」
「え?」
「私はね、炎の運び手に参加して、ワイアットに出会った時にすぐ気付いたわ。この人は水の継承者だって」
 突然穏かに昔話をし始めたは「まあ、座ったら?」とクリスに勧めた。
「でもね、あの人は気付かなかったみたい。私の紋章は他の紋章とは違って気配が薄いらしくてね。共鳴もまず起こさないし。だからゲドもも私が言うまで気付かなかったんですって。でも、どっちにしろ何十年かすれば嫌でも気付くでしょう?だからワイアットには何も言わなかったの。…私は、あの人と居られればそれで幸せだったもの」
 そうしたら、と彼女は可笑しそうに笑った。
「貴方が五歳の頃、手紙一つ置いて突然姿を暗ましやがったのよ、あの男は」
 ゲドやとは紋章の共鳴を感じていた彼だからこそ、共鳴を感じないがまさか真の紋章を宿しているのだとは思わなかったらしい。
「追手が嗅ぎ付けたからって何よ。全てを打ち明けて一緒に逃げてくれ、くらい言えなかったのかしらね。お陰で私は自分の正体を明かす機会を失ってしまって、もっと早く告げておけばよかったって後悔したわ。あの時まで、私は余りにも幸せだったから…そんなこと、些細な事だと思ってしまってたのよ…」
 だから追いかけてやろうって決めたのだと彼女は笑った。
「ねえクリス、貴方は覚えて無いかもしれないけれどね、幾ら危険な旅とは言え、やっぱり貴方を執事に任せて一人残していくわけにはって思ったのよ。それで、まだ六歳になったばかりのあなたが理解できるとは思わなかったけど、聞いてみたのよ。「お母さんはこれからお父さんを探しに行ってくるけど、一緒に行く?」って。そしたらあなた、なんて言ったと思う?自分じゃあ足手纏いになるから、私があの人を連れて帰って来るのを待ってるって言ったのよ」
 感動したわ、と彼女は言う。
「だから、必ずワイアットの阿呆の首根っこを捕まえて連れ帰ってやるって思ってたのよ。でも敵もさる者。さっぱり足取りが掴めなかったわ。まさかすぐそこのグラスランドに居るなんて思わなかったからデュナン彷徨ってトランでも彷徨って。もしかしたらもうすぐこの街に来るかもしれないからってある街に一年くらい滞在してみたり。でも見つからないからこうなったらハルモニアか!ってこっちに戻って来たついでに家に戻ってみたらワイアットの遺品だなんてモンをカラヤの少年から預かってるじゃない?こりゃもう灯台下暗し。グラスランドだ、とね」
 ところがどっこい。カラヤクランに辿り着いてみれば既に焼け落ちていて。
「仕方ないからチシャの村のサナんとこに暫く厄介になってたんだけど、炎の運び手がどうのって騒ぎが起きたって話を聞いて居ても立っても居られなくてね。そのままサナんちに居れば貴方たちに会えたのに、私は貴方に逢いにゼクセまで行ってたのよ。だってまさか騎士団長になってるとは思わなかったもの。そりゃあ執事が何か言ってたような記憶が無いわけでもないけどね。まあとにかくゼクセの家に行けば居ると思ったのよ。ホント、すれ違いで嫌んなったわ」
 そして彼女は紅茶の満たされたカップを手に取り、ぐいっとそれを煽った。
「それでやっと辿り着いたと思ったらあの人はとっくにオサラバしてるんだもの。笑いたくもなるわよ」
 かっちゃんっとカップをソーサーに戻す音がやけに響く。
「このクソ長い人生の中で、はじめて心から愛せた人だったのにねえ」
 そして彼女は一つ大きな溜息を吐いた。
「私の生まれた村はね、代々この白雪を奉って守って来たわ。奉るって言ってもね、祭壇に封印してとかそんなんじゃないの。代々巫女が五十年その身に宿して、神楽の中で過ごすのよ。私はその巫女だったわ。物心付いた時には既に先代の巫女と一緒に神楽の中で過ごしていて、あの頃は灯りって言ったら太陽と月、あとは松明や蝋燭程度しかない時代だったから、いつも閉め切られたあの部屋は昼でも薄暗かったわ。私は二十歳になるまで外を見た事が無かった。私の世界はあの神楽の狭い室内だけだった。そして私が二十歳になって、正式に白雪が私へと継承された。その夜よ。村は突然の雪崩に襲われて呆気なく消えたわ」
 そして彼女は己の右手の甲を見詰め、自嘲気味に笑った。
「私に宿った紋章が、暴走したのよ。私はただ、ここから出てみたいって思っただけだったのに、それを引き金にして白雪は暴れたわ。気付けは村を埋め尽くした雪の上で一人呆然としてたわ。我に返って、慌てて雪を掘り起こしたわ。でも幾ら掘っても屋根すら見えなくてね。結局、何も出来なくて、今ではあの一帯はその時の雪が解ける事無く固まって、永久凍土よ」
「聞いた事があります。トランの遥か西にそういった地があると…幾ら削ろうにも削れぬ、炎を当てても溶ける事の無い氷に覆われた土地がある、と…」
 サロメの言葉に、は軽く肩を竦めることでそれを肯定した。
「…それから私は放浪を始めたわ。幸い、私にはこの白雪があったから生き延びてこれたけれど、本当に私、この世界を何も知らなかったんだと思い知ったわ。だって、頬を撫でる風ですら、それが「風」であると理解するのに暫く掛かったもの。私にあったのは白雪に関する事だけ。それだけだったのよ。だから、始めの内は楽しかったわ。どこへ行っても初めての事だらけ、面白い事だらけだったもの。でも、ヒクサクがアロニアを倒してハルモニアを建国して、太陽暦を制定した頃には飽きて来てたわ」
「あの…さんってお幾つなんですか?」
 控え目なヒューゴの発言に、は「忘れたわよ、そんなの」と首を傾げた。
「あ、でも確か…ヒクサクが太陽暦を制定した年でちょうど百歳だったかしら?」
「…てことは…五百七十五歳ってこと…?」
 会議室の空気がざわりとどよめく。
「良いの。私は永遠の二十歳って決めたんだから」
 そんな事より、と彼女はルイスに紅茶のおかわりを請求する。
「あ、はい、只今」
「まあそんなこんなでね、だらだら生きて来たわけよ。それで今から五十年前に達と出会って、その時に「あ、この人私の好み!」って思ったのよ。ゲドを」
「え?ゲドさん?」
 きょとんとした声のヒューゴに、「そうよ」と彼女は笑った。
「ゲドってね、私の理想の男そのものなのよ。もうこの男を逃したら次に会えるのは何百年後だろうって思ってさぁ。これはもうゲットして美味しく頂くしかないだろ、と思ってたわけ」
「お、美味しくって…」
 途端、ヒューゴが赤面する。クリスに酷似した顔で下ネタは止めて欲しい。
「ところがどっこい、気付きゃ私はゲドよりワイアットの傍に居るじゃない。やーもうどうした自分!って感じでね。悩んでる間に争いは終っちゃってさ。そうしたら最後の晩にね、あの人、一緒に来てくれって言ってくれたのよ。そこで漸く私はあの人を愛してたんだって気付いたわ。それからはもう幸せ街道まっしぐらよ」
 ただね、と彼女は机をばしっと叩いた。
「それにしても30年よ?!30年以上連れ添って当然ずっと私はこの姿から成長しなかったのよ?!普通気付くでしょう?!なのにワイアットってば「はいくつになっても綺麗だね」なんて抜かすのよ?!嬉しいじゃないのさ!ってそうじゃなくて!」
「……」
「いくら共鳴しないからってあそこまでボケなくても良いでしょう?!第一なんで私があの人が紋章持ちだって気付いて無いと思ってたのかしら?!炎の英雄の側近である二人も真の紋章を宿してたって話が今でも残ってるくらいなんだから、あの当時誰より一緒に居た私が知らないわけ無いでしょう?!」
 バカにもほどがある!と彼女は二杯目の紅茶を再びがぶ飲みした。
「あの人は昔からそうよ!他の事に関してはシャキシャキしてるのに私に関してはデレデレデレデレ!ガラハドとペリーズには「いやいやいつになってもお熱い事で」なんて会う度に言われてたのよ?!何なの!?恋は盲目とでも言いたいわけ?!喜ぶべきか怒るべきかさっぱりよ!」
 がちゃん、と本日二度目のカップとソーサーの大激突音が会議室に響く。
 ノリは最早酒場で愚痴を零す酔っ払いだ。
 始めはライトフェロー家の出来事を交えた紋章の話だったはずが、何時の間にやら惚気話になっている気がしてならない。
「え、と…その、落ち着いては?お、お母様?」
 半信半疑な声音でそう宥める娘に、はふと熱が冷めたように表情を消してクリスを見た。
「クリス、私を母などと呼ばないで頂戴」
 瞬間、クリスの瞳に傷付いた色が浮かび、周りからはに非難の視線が集まる。
 だが、は背凭れからゆるりと身を起こし、クリスを見詰めた。
「理由はどうであれ、私は幼い貴方をあの寒い屋敷に独り残してふらふらしていた女よ。その上ワイアットを連れ戻すという約束すら守れなかった。母親らしい事なんて殆どしてあげられなかった。今更、母と呼ばれる資格など無いわ」
「…でも、さんは、クリスさんの事、愛してたんですよね?」
しんとした部屋の中、相変わらず控え目なヒューゴの言葉に、は当たり前よ、と言い切った。
「あの人との子だし、五百年以上生きて初めての子だもの。愛してるわ。それにね、昔のクリスはそりゃあもう可愛かったのよ。真っ白のふりふりのワンピースを着せてあげてね、クリスはくまの縫い包みに「まあくん」って名前を付けてそりゃあもう常に抱いて歩いていたわ。街を歩かせれば颯爽と人攫いが現れそうなくらい可愛かったもの。これを愛さず何を愛せというほど可愛かったわ。ワイアットが寂しそーうにしょぼくれるくらいクリスに夢中だったわよ。勿論今でも十分可愛いけどね」
「そ、そうですか…」
 何やら真顔で娘自慢をされてしまった。因みに娘本人は赤くなって何やら口をぱくぱくさせている。
「でもね、だからと言って「私は貴方のお母さんよ、帰って来たの、さあお母さんと呼んでこの胸に飛び込んで来て頂戴」だなんて図々しいにも程があるわよ」
 すると、「さて」と彼女はがたりと立ち上った。
「何かついつい余分な話までしちゃったけど、クリスの顔も見た事だし、帰るわ」
「えっ?!」
「だって旦那の行方も分かったし、娘の立派な姿も見たし。もうここに居る必要無くなったもの」
 紅茶美味しかったわ。御馳走様。
 そうルイスに告げてさっさと会議室から出ていこうとするに、クリスが慌てて席を立った。
「待っ…!」
 突然、クリスの右手に宿る真なる水の紋章が淡い光を放つ。
「?!」
「クリス様!!」
 それに気付いたも足を止め、振り返った。
「…っ…」
 クリスのからだがぐらりと倒れそうに傾ぐが、それはクリス自身が踏み止まって防がれた。
「クリス?!」
 駆け寄ろうとした瞬間、顔を上げたクリスの表情にはびくりと足を止めた。
 クリスは、優しげに微笑んでいた。
「…まさか…」
 その笑みは、誰より良く知っている。
「…久しぶりだな、アンナ…」
 クリスの声で紡がれる言葉に、は目を見開いた。
「…ワイアット…」
「アンナ、いや…、か…」
 名を呼ばれた途端、「何やってんのよ!」と思わずは叫んでいた。
「娘の身体乗っ取るなんて何考えてんのよ!いやらしいわね!」
 酷い言われ様にワイアットはくつくつと笑った。
「相変わらずだな」
「相変わらずも何も無いわよ!何やってんのって聞いてんのよ!死んだんならそれらしくお空の彼方から眺めてれば良いじゃないのよ!」
「いやほら、死んだには死んだんだが、要は真なる水の紋章に喰われた様なモンなんだわ。だからこういう芸当が出来たわけなんだ」
「じゃあ何!普段は娘の着替えを覗いてお風呂は一緒に入ってるって事?!なんて羨ましい!!」
 さりげに論点がずれている。
「いや、さすがにいつも意識を保っていられるわけじゃないんだ。今はユンが力を貸してくれている」
「あーらそう!で、わざわざ何なの?」
「すまなかった」
 ワイアットの謝罪にが固まる。が固まっている間にワイアットはの前まで歩み寄ると、そっとその身体を抱きしめた。
「俺の為に十七年も費やしてくれて、ありがとう」
 抱きしめられて漸く我に返って来たは「ふざけないで」とその体を突き飛ばすように押し返した。
「娘の身体借りて図々しい事抜かしてんじゃないわよ!すまないと思うならクリスじゃなくてあなた自身の身体で抱き締めなさいよ!肉体無くしたけど魂は残ってます、おやおや目の前に居るのは愛しの妻じゃないですか、じゃあちょっくら娘の身体乗っ取って言い残した事伝えましょうかって?!バカにするにも程があるわ!!」
 その声は徐々に涙声になっていき、とうとうその目尻から涙の粒が零れ落ちた。
 こつん、こつん…
 の流した涙は零れ落ちた途端、乳白色をした綺麗な球体になり、床に転がっていく。
「ああもう貴方がバカな事ばかり言うから泣いてしまったじゃないの!私の泪は十粒売れば一生遊んで暮らせるくらいの値がするのよ!白雪を宿している私にしか出来ない事なのよ!希少価値なのよ!貴方はそれをぼろぼろバカみたいに零させてるのよ!価値が下がったら貴方の所為だからね!!」
「それだけ、俺は愛されているという事なんだろう?」
「なっ…!何を抜けぬけと…!当たり前じゃない!愛してなかったら誰が結婚して子供まで産むかっていうのよ!ああもうさっさと成仏しなさいよ!こんなの端から見たら良く似た姉妹が危ない百合を咲かせているようにしか見えないじゃないの!」
のセリフにワイアットはもう一度笑うと、それじゃあ、との頬を撫で、眼を閉じた。
「……もう、良いのか?」
 次にその紫の眼を瞬かせた時には既に元のクリスへと戻っていた。するとはぐいっと目元を拭い、「ええ」と微笑んだ。
 そしてその右手を差し出し、足元に転がる己の涙の結晶へと視線を落す。
「おいで」
 するとその声に導かれるように涙の結晶はするりと彼女の手の中へと落ちた。
「これ、あげるわ。騒いだお詫び。ゼクセ辺りの宝石商に見せれば喜んで買い取ってくれるわ」
 そう言って彼女はそれを机の上に置く。そして再びクリスへと向き直ると、その右手を取った。
「ねえ、クリス。私の白雪はね、水ととても相性が良いの。だから、こういう事も出来るのよ」
 ふわり、と二人の周りを柔らかな風が包み込む。
「さあ、来なさい」
 の声に呼応してクリスの右手が光を放つ。その青白い光は一つの光球となり、そしてふわりと霧散した。
「今のは…?」
「あのバカの魂。閉じ込めてたら、可哀相だもの」
 それに、と彼女はクリスの手を放した。
「死んでるのか死んでないのか微妙な事続けられると、私も死ぬに死ねないわ」
 冗談めかして肩を竦めた彼女は「ごめんなさいね」とクリスに告げた。
「ごめんなさい、やっぱり、私は悪い母親だわ…」
「え…」
「私ね、ここへ来る時、決めたの。ワイアットが生きていれば半殺しにしてそれで良し。もし死んでいたら…」
 そこで彼女は言葉を止め、視線を落して微かに微笑んだ。
「本当はね、貴方がどんな人と結婚して、どんな子を産むのか…それを見届けてからにしようと思ってたんだけど…駄目ね。私、あの人が居ないとどうしようもないのよ…」
 ふわりとの体から真皓い光の粒子が螺旋を描いて舞い上がる。
「待って!」
 あの時と同じだ、とクリスは思った。
 ユンが、そして父が散った時と。
「我侭で、ごめんなさい…」
 そしてまた、同じ様に彼女は光となり、消えていった。
「そんな…」
 が居た場所には、雪の結晶を象った紋章が浮いている。これが真なる白雪の紋章なのだろう。その紋章はすぐに、それこそ雪が解けるようにその姿を消してしまった。
 がくりとクリスの身体から力が抜け、へたり込む。いつもは気にならないはずの鎧の音がやけに耳に障る。
「クリス様…」
 サロメ達が駆け寄るが、彼女はその顔を上げようとしない。
「私は…私はまた、捨てられたのか…?」
 呆然と呟くクリスに、ルイスがそっとその肩に手を当てる。
「クリス様、お部屋の方で御休みに…クリス様?」
 クリスを覗き込むと、彼女はじっと何かを思い出すような視線でルイスを見て居る。
 何度もあった、この光景。
 私が塞ぎ込んでいるとこうして肩に手を当て、そっと覗き込んで来た。
 落ち込んだ時はね、部屋を暖かくしてゆっくり眠るのよ。眼が覚めてみれば、案外どうでも良いような事だったりするんだから。
 そう記憶の中で笑っているのは、確かに…いや、母だ。
 そして、母の言葉に頷いて立ち上った自分を優しい笑みで抱き上げてくれたのは父だった。
「……」
 違う、とクリスは首を振って立ち上った。
 私は、捨てられたのではない。
 私は、愛されていた。
 ただ。
「…すまない、少し、休ませてもらう…」
 そう告げてクリスは会議室を出ていく。足早に階段を降り、大股で自室へと向かった。そしていつもより丁寧に扉を閉じ、己のベッドに腰掛けたクリスはじっと絨毯の敷かれた床を見詰める。
「…お父様…お母様……」
 ただ、彼女は何より夫を愛していた。
 否、「夫」ではなく、「ワイアット」を。
「……お母様……」
 クリスは溢れてくる涙を隠すように両手で己の顔を覆った。
 彼女とは違って、暖かく、染み込んでいく涙。
 彼女は今、最愛の男と共に森や草原を風に乗って駆け抜けているのだろうか。
 お互いの手を取り、幸せそうに笑い合う二人の姿が脳裏に浮かび、クリスは泣きながら微かに微笑んだ。
 自分は一人遺されたというのに、不思議と怒りは湧いてこない。
 ひたすらに、あの二人が幸せであって欲しい。
 そう、願った。







(終)
+−+◇+−+
夢じゃないですね。ええ、かなり前から気付いてました。(爆)
元々は、幻水3やってて「そういやアンナの姿や行方って出て来ねえなあ…」と思ったのが切っ掛けでした。つまり、出て来てないのを良い事に好き勝手な設定を作ったれ、と。
あーそれにしてもクリスが微妙に哀れ。
今回分かった事。私は夢小説に向いてない。
(2003/02/03/高槻桂)

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