美柳ちなみに傾倒するのは簡単だった。 彼女は想像以上に人の出来た女性と思えたし、何より妹と間を持ちたい自分にとってそれは容易かった。 妹に彼女と真剣に付き合っていると報告したとき、妹は泣いた。 どう説得したのかは覚えていない。 ただ妹のわんわんと泣き喚く声と涙でぐしゃぐしゃになった顔だけはよく覚えている。 それから暫くして、妹と彼女を引き合わせた。 妹は最初こそ僕の影からじっと彼女を睨みつけていたけれど、彼女が優しく言葉をかけていくうちにそろりと僕の影から出て彼女の手を取った。 安堵すべきはずのその光景に、僕は不快感を感じていた。 妹と彼女が打ち解けていけば行くほど、不愉快さは増していく。 その時は分からなかったが、今なら分かる。 あれは、妹が自分以外に懐くのを見るのが嫌だったのだろう。 それ以来、妹と彼女が顔を合わせることは無かったし、彼女の方から打診があっても適当な理由をつけて誤魔化した。 妹から離れようとしておきながら、その妹が自分から離れていくのが赦せない矛盾。 それに気付けなかったあの頃はただ笑って全てを誤魔化していた。 やがて、彼女との関係は最悪の形で終りを迎えた。 妹は僕を責めなかった。 寧ろ妹はごめんなさいと謝った。 あたしがもっと反対していれば良かった。 あたしがあの人を認めなければ良かった。 ごめんなさい、ごめんなさい。 意気阻喪していた僕の頭を抱きかかえ、何度も何度も泣きながら謝った。 それ以来、人見知りが激しくいつも僕の陰に隠れていた妹はそれをやめた。 あたしが守るから。 お兄ちゃんはあたしがきっと守るから。 再び戻ってきた二人だけの生活。 父は相変わらず地方の支社を転々としていて、一年に数えるほどしか帰ってこない。 だから僕たちは出来うる限り一緒に過ごした。 一緒に買い物に行き、一緒に料理をして一緒に眠った。 それが幼い頃からの当たり前だっから、それがおかしいとは思わなかった。思おうとしなかった。 ただ以前と一つ違っていたのは、毎月数日の間、別々に寝ることがあった。 いつもは当たり前の様に僕のベッドに入ってくる妹が、もじもじしながら今日は自分の部屋で寝るね、と言いだした時、当然のように僕は何故かと聞いた。 僕たちの間に隠し事は無いも同然だった。だから妹は照れながらも当たり前のようにそれに答えた。 生理の多い日だから、と。 その時の僕の顔はとんでもなく間の抜けた顔をしていたのだろう、妹までがきょとんとしてどうしたの、と聞いてきたくらいなのだから。 それから、毎月のある時期になると妹は自室で寝るとだけ言い出すようになった。 僕はそれに対して頷くだけだった。 一人で眠る夜は、いつも狭く感じるはずのベッドが逆に広すぎるように感じた。 一人きりのベッドの中で思うのは、いつも妹のことだった。 壁一枚向こうで眠っているだろう妹。 一緒に眠っている時は気にならないのに、ふと一人になってみるとその身体の柔らかさを思い出す。 少し前まで子供特有の骨ばった抱き心地だったのが、少しずつ肉がついてきて柔らかい線を描き始めている。 真っ平らだった胸も、少しずつ膨らみを宿しつつある。 確実に女へと変化していく妹の身体。 それはどんな抜群のプロポーションを持つ女性の裸体より猥褻だった。 実際、妹を思いながら自慰をしたことも一度や二度ではない。 背徳だと知りつつも止められなかった。 他の女性に興味が無いわけではない。 しかし元が淡白なのか、知的好奇心が満たされると食指は動かなくなった。 何より、移り香を纏って朝帰りした時の妹の嫌悪に満ちた視線が痛かった。 暫くの間、目も合わせてくれなければ口も聞いてくれなかった事も堪えた。 僕にとって女性と抱き合うことより、妹と寄り添って眠る方が余程癒されるのだった。 そもそも、何故僕と妹がこんな異常なほど親密なのか。 それは妹が生まれたばかりの頃に遡る。 妹が生まれてその瞳が開いた翌日、母は自室で首を吊って死んだ。 あの子の目の色が、銀灰色だったからだ。と僕は思っている。 そう、今でこそカラーコンタクトで分からないが、あの子の本当の目の色は銀灰なんだよ。肌の色も日本人にしては白いしね。 ともかく、天井からぶら下がっている母を最初に見つけたのは僕だった。 数秒か数分か、とにかく僕は呆然として母だったそれを見上げていた。 そんな僕を我に返したのは妹の泣き声だった。 そして我に返った途端、恐ろしくなった。 例え母であろうと、目の前にあるのは死体なのだ。 僕は反射的に部屋を出て扉を閉めた。とにかく視界から遮断したかった。 けれども恐怖は収まらない。扉向こうに死体がぶら下がっているのだ。 僕は逃げ出そうとした。けれど赤ん坊の、妹の泣き声が僕を引き止めた。 妹はリビングのベビーベッドに寝かされていた。 幾ら不義の子でも、道連れにする事は出来なかったのだろう。 僕は妹を抱き上げると、そのまま家を飛び出した。 半泣きで交番に駆け込んで、母が首を吊っていることを知らせた。 それからはよく覚えていない。 ただ交番の奥の部屋で妹を抱きしめて震えていた。 あの頃はまだ父は本社勤めだったから、警察からの電話にすっ飛んできた。 僕に何か言っていたような気もするけれど、覚えていない。 ただ、後で発見された母の遺書だけは、はっきりと覚えている。 私は死を選びます。 ごめんなさい。 それだけだった。 まだ子供だった僕には何故母が死ななければならなかったのか理解できなかった。 ただ、周りの人たちの囁きが、断片的にその理由を教えてくれた。 けれど妹を恨むことはできなかった。 あの時、僕は小学四年生だった。 御剣の転校。母の死。 二つの突然の喪失に僕は耐え切れなかった。 妹に縋るしか、耐える術を知らなかった。 妹を懸命に世話をすることで全てを記憶の彼方に追いやろうとした。 実際、会社に泊まりこみがちな父と小学生の僕だけでは赤ん坊一人の面倒は大変で、一時はヘルパーを雇って何とか凌いだ。 あの子が初めて覚えた言葉は「にー」だった。「兄ちゃん」の「にー」だ。 嬉しかった。 小さな手が僕の指を握って「にー」と笑った時は思わず泣いてしまったほどに。 この小さな命は僕を必要としている。 僕がいなければこの子は生きていけないのだ。 それは慰めであると同時に、甘美な誘惑だった。 同時期に二つの喪失を味わった僕は、もう二度と失いたくないと思うようになっていた。 この子を失いたくない。 ずっと傍にいてほしい。 その為にはどうすればいいのか。 簡単な事だった。 僕が、全て吹き込んだのだ。 何故あの子だけ目の色が違うのか。 何故父があの子を見ようとしないのか。 何故母が死んだのか。 全て、やんわりと真綿で首を絞めるように吹き込んだ。 だけど大丈夫。 僕だけはの味方だよ。 誰が何と言おうと僕はの瞳が大好きだよ。 僕だけがを幸せにしてあげられるんだよ。 大丈夫、は僕が守ってあげるよ。 そうして甘い毒を糧に育った妹は兄べったりの子になった。 あの子にとっての家族は僕だけであり、父は「父親」という名の生物であり、「家族」ではなかった。 あの子は僕が思い描いたとおりに育っていった。 長い髪が好きだといえばあの子は髪を伸ばしたし、やはり短いほうが似合うのではないかと言えば躊躇う事無く髪を切った。 何をするにもまず僕に相談し、僕が許可しなければ決してそれを行わなかった。 あの子にとってそれが当然であり、僕にとってもそれが当たり前だった。 僕は、あの子に甘えられることによってあの子に甘えていた。 あの子が僕に依存すればするほど、僕もあの子に共依存していった。 そしてそれが歪んだ愛情を生み出した。 それを自覚したのは、妹に初潮が訪れたあの瞬間だった。 それと同時に、どれだけ自分が罪深い事をしてきたのかを悟らされた。 けれどもう手遅れだった。 あの子をそう育ててしまったように、自分もまた、そうやって生きてきたのだから。 そこで僕は溜息を吐いて、目を閉じる。 こんな言い方をすれば君は傷付くだろう。 それでも、 「君を好きになっていれば良かったのに」 それならば、まだ、救われたのに。 |