「好きだよ、他のものなんてなんにも見えない!」
(ゴドー/逆転裁判夢) 私を拾った男はゴドーと名乗った。 苗字なのか名前なのかは知らないが、とにかくそれで彼を呼んだ。 ゴドー検事、と呼べば検事は付けなくてもいいと言われ、だからゴドーさんと呼んだ。 彼の事はそれだけしか知らない。 年齢は聞いてみたが、忘れたと返された。恐らく三十路前後だろうが。 彼に手を引かれ連れて来られたのは、あのコンビニから歩いて十分ほどの所だった。 何度か通ったことのある道沿いにある高級マンションの十一階。 そこの一室がゴドー狼の塒だった。 リビングできょろきょろしている私に、とりあえず暖まって来いと風呂場に押し込まれた。 今日は元々兄のアパートに泊まる予定だったので、下着類の変えは持っていたがパジャマはアパートに置きっぱなしだ。 どうしようと洗面台の前で立ち尽くしていると、彼はコレで我慢しろと男物のシャツとスウェットを私に手渡した。 シャワーの使い方の説明は必要かい?なんて聞いてきたのでそれぐらい分かりますと男を脱衣所から追い出した。 温かい湯を浴びてほっと一息吐く。 見慣れぬ浴室。 いつもと違うボディソープやシャンプー。 ああ、家出してしまった。 途端、そう実感した。 兄は今頃私を探して走り回っているのだろうか。 それともまだアパートであの男と一緒なのだろうか。 「……」 アパートを飛び出す原因となった光景を思い出してむっとする。 力任せにごしごしと身体を洗った。 シャワーの湯をもう少し熱くする。 「…お兄ちゃんのばか…」 小さな呟きは浴槽によく響いた。 じわりと滲んだ視界を湯でばしゃりと洗い流し、頭から湯を被る。 後で連絡を入れておこう。捜索願でも出されたら厄介だ。 それより、まずは自分のことだ。 シャワーを止め、髪をきゅっと絞る。 ついうっかり知らない人についてきてしまった。 「知らない人についていってはいけません」なんて安全ルールの第一条みたいなことが脳裏に浮かぶ。この年になって破る羽目になるとは思わなかった。 だって、嬉しかったのだ。 誰にも頼れず、コンビニの影で座り込むしかなかった私に手を差し伸べてくれた。 …まあこれが酔っ払いのオッサンとかだったら鉄板仕込みの踵落しでも食らわす所なのだが。 多分、秋霜烈日章と兄を知っているという事が私の警戒心を解いてしまったのだろう。 だからあんな奇天烈なゴーグルをつけて人をコネコちゃん呼ばわりする男についてきてしまったのだ。うん、きっとそうだ。 何にしろ、今の私は差し詰め狼の塒にのこのこ飛び込んだ子山羊さんだ。ああ、彼の言葉を借りるならコネコちゃんか。 某絵本のように友好関係を築けるのか、それとも喰われてしまうのか。 どっちだっていいさ。 所詮、私は誰の一番でもないんだ。 例え頭からばりばり喰われたとしても文句は言うまい。 狼の塒に飛び込んだのは、私自身の選択なのだから。 タオルで髪と体を拭いて脱衣所に立つ。 鏡に映った自分の顔は、酷く投げやりに見えた。 それから視線を逸らし、下着を身につける。 そしてだぼだぼの男物のシャツを羽織り、スウェットに足を通し…落ちた。 うん、何となくそんな気はしていたよ。 男物のスウェットは私の腰に引っかかることも無く空しく床に落ちた。 せめて紐で調節できるタイプだったら何とかなっただろうが、生憎ゴムタイプでどうしようもない。 …まあいいや。 シャツの裾は膝まであるし、別に見えやしないだろう。 私はあっさりとスウェットを穿く事を放棄し、元通り畳んで籠に置いて脱衣所を出た。 するとふわりとコーヒーの香りが鼻を擽った。 見ると、リビングのソファで、狼が暢気にコーヒーを啜っていた。 彼は私の姿を見るとにやりと笑った。 「随分と色っぽい格好じゃねえか」 「?何が」 私は自分の姿を見下ろして首を捻った。 別に胸元を肌蹴ているわけでも太ももチラリってわけでもない。 が、見下ろして気付いた。 思わず私はぽむっと手を叩いた。 「ああ、男のロマンか」 漸く自分の格好を客観的に捉えることが出来た。 そうか、これは見える見えないの問題ではないのか。 うら若き少女が男のシャツ一枚。 そりゃロマンでマロンでデンジャラスだ。うん、意味不明。 「クッ、無自覚とは恐れ入るぜ」 「そりゃ失礼。あのズボン、腰にすら引っかからなかったもんで」 私はがしがしとタオルで髪を拭きながら彼の座るソファに歩み寄る。 ぺたぺたと足音が響いた。 「隣、座っていい?」 「空いてるぜ」 座っていいようだ。私はとすんと彼の隣に腰掛けた。 「コーヒー、好きなんだね」 「どうしてそう思う?」 「だって、インスタントの匂いじゃないもん。私、コーヒーはあまり飲まないほうだけどこれは凄くいい香りだと思う」 すると彼はまた喉を鳴らして笑った。 「違いの分かるコネコちゃんは嫌いじゃないぜ」 「そりゃどうも」 彼の隣でがしがしと髪を拭いていると、不意にタオルを奪われた。 「そんな拭き方じゃ髪が傷んじゃうぜ。貸してみな」 大人しく彼が拭きやすいように背を向けると、わしわしと髪を拭かれた。 うん、確かに力任せに拭く私とは大違いだ。気持ちいい。 毛先の方は纏めてきゅ、きゅ、と拭かれてタオルを返された。 「ありがとう」 ドライヤーもかけてやろうか、という言葉にはさすがに申し訳なかったので遠慮して洗面所へ戻った。 本当は自然乾燥派なのだが、言えば多分笑われるだろうから大人しくドライヤーを使わせてもらった。 ある程度髪が乾いた所でドライヤーを置く。これくらいでいいや。 ふと傍らに掛かっている制服を見上げる。 そういえば内ポケットに携帯入れっぱなしだった。 ハンガーからずり落ちないようにそっとブレザーの内側に手を差し入れ、目的の物を引きずり出す。 電源の入ってないそれは沈黙を守っていた。 ぱかっと開き、電源を入れる。 リダイヤルで見慣れた番号を出し、ボタンを押した。 一回、二回。 『ちゃん?!』 二回目のコールが終わる寸前に回線は繋がり、兄の叫ぶような声が聞こえた。 『今どこにいるの?!』 「…友達んち。暫く帰らないから。捜索願なんて出したらぶん殴る」 『ちゃ』 かち。 ボタンを押す微かな音と共に兄の声は途絶えた。 ぱちんと携帯を折りたたんで閉じる。 ぶん殴る、なんて初めて兄に言った。(当然行ったことも無い) 何より大好きなお兄ちゃん。 兄が私の一番だった。兄が私の心の拠り所だった。 私には成歩堂龍一だけだった。 他には何も無かった。 兄には兄の世界があるし、繋がりがあった。 私はずっとその世界の一番だと思ってた。 だけど違った。 私は一番じゃなかった。 その日はいつかは訪れると覚悟していたつもりだったけれど。 寄りによって、あんな。 「……」 ぎゅっと握り締めた携帯電話が手の中でみしりと音を立てた。 *** ゴトーさんちに転がり込みました。 |