犬 生徒が午後の始めの授業を受けている頃、はのんびりと校舎に沿って歩いていた。 特に何処へ行こうというわけではない。 彼女は三度目の妊娠をしてからは、毎日この時間はこうして校内を散歩している。 夫であるセブルス・スネイプも手が空いている時は隣りを歩いているのだが、大抵は彼は授業があり、毎日昼食の終わりには「足元には気を付けろ」だの、「何かあったらすぐ呼べ」などと妊娠している当人以上に気を使って授業へと向かう。 三度目だというのに相変わらずの夫を思い出し、はくすくすと笑った。 禁じられた森の近くを歩いていると、がさり、と物音がしては足を止めた。 「あら?」 足を止めて辺りを見回してみる。 そして森のある一点で彼女の視線は止まり、再び「あら?」と呟いて森へと近付いて行く。 彼女の視線の先では、一匹の大きな黒い犬がじっとこちらを見ていた。 「あらあらあら?そこにいるのはちゃっかり逃亡中の某パッドフット氏じゃなくて?」 がすぐ傍まで近付くと、その犬の尻尾が中途半端に揺れた。 まるで途惑いと喜びが入り交じっているようなそれに、は苦笑した。 「付いて来て」 は身を翻すと歩き出した。 黒犬は暫し迷ったようだったが、結局はの後を追って歩き出す。けれど森から姿を現わす訳にも行かないので、森と裏庭の間を縫うように付いて行く。 少しずつ校舎から離れて行き、と黒犬は湖へと辿り着いた。 黒犬が何をする気だと見上げてくる視線を受け、は「決まってるわ」と唇の端を持ち上げた。 「あなたを洗うのよ」 そして何度か「アクシオ!」と唱え、彼女の手には手桶と粉石鹸、そしてブラシが握られた。 「妊婦相手に暴れるなんてこと、しないわよね?」 最後に呼び寄せた高さの余り無い椅子に腰掛け、笑顔で沿う釘をさすに黒犬は諦めたように彼女の前に座り込んだ。 「昔から一度洗ってみたかったのよ。はい、右手出して」 は楽しそうに笑いながら差し出された泡だらけの右の前足に水をかけて洗い流していく。 粗方流し終ると、はにっこりと笑って、 「じゃ、飛び込んで泡を完全に落しておいで」 と湖を指差した。 黒犬はもうどうにでもなれ、と言わんばかりに立ち上り、が飛沫の掛からない所まで避難するのを待ってから湖へと飛び込んだ。 軽く泳いでから岸に上がり、体を振って水を飛ばすとが大きなタオルを広げて黒犬の体を包み込んだ。 「はーい、キレイキレイ。ホントはお風呂使わせてあげたいんだけど…」 の私室はセブルスの隣りにある。だが、廊下からは扉が無い為入れない。彼女の部屋への扉は、セブルスの研究室にあるのだ。 そんな所に連れて行こうものなら見つけて下さいと言っているようなものだ。 犬の姿でなら確かにシリウスだとはばれないだろうが、「お前の体に悪い」とか言い出すのも目に見えている。 ごめんね、と謝るに、黒犬は気にするな、と言うように首を振った。 は呼び寄せた物を杖を振って再び元の場所へと戻し、濡れていない場所へと移動した。 樹の根本に胡座を掻いて座ると、その隣りに半乾きの黒犬が寝そべる。 「キッチンに何かあったかしら…ああ、ミートパイがまだ残ってたわね…」 これくらいしかないけど食べる?と問い掛けると、黒犬の尻尾がばたばたと振られた。 彼女がくすくすと笑いながら何度目かの呼び寄せ呪文を唱えると、四分の一にカットされたミートパイが現れた。 「どうぞ」 差し出されるや否や黒犬はミートパイに齧り付いた。 はそれを微笑ましげに眺めていたが、やがて彼がそれを食べ終ると懐かしそうに目を細めた。 「ホント、久し振りね…十二年ぶり、かしら…もう、そんなに経っていたのね…」 そっと黒犬の頭を撫でながらは呟いた。 最後に会ったのは、あの、崩れ落ちた家の前。 「そうね…ジェムももう十三歳だものね…」 ジェムの名に、黒犬の耳がぴくりと動く。はそれを見て小さく笑った。 「そうそう、貴方たち、昔ジェムに会ったんですってね。この前、あの子が話してくれたわ。 だから、あの時貴方たちはあんな事言ってたのね。 …今ね、見て分かる通り三人目を妊娠してるの。本当はあの時言っていた残りの三つから付けてあげたい所なんだけど、ちょっとした事情でもう名前は決まってるのよ。ごめんなさいね」 黒犬がじっとを見上げている。 はどこか儚げな微笑みを浮かべた。 「ピーターを、追って来たのね?」 ピーターの名に、黒犬は低い唸り声をあげる。 「ピーター、最近とっても痩せて来てるわ。あなたの事が本当に怖いのね」 の言葉に、彼は何処か責めるような視線を向けた。 「…あなたの言いたい事は分かるわ。けど、私は彼を責める事は出来ないから…知ってるでしょう?私が何処に居たか…」 の問いかけに、黒犬はこくりと頷いた。 「ヴォルデモートが凋落して、駆け付けた時には全てが終わっていて…暫くしてあなたはアズカバンへと送られてしまった。 私は裏切っていたのがピーターだと知っていたけれど、何も言わなかった。 私、あなたが大切だわ。だけど、同じくらいピーターも大切だったの。 だから、あなたがピーターを殺したかもしれないって思ったら、あなたが憎く思えた。 だから、何も言わなかったわ。セブルスもダンブルドアに何も言わなかったから、私はあの時きっと、丁度良いって思ったのね。 けれど、ジェームズたちを売ったピーターも憎かったわ。 その内、セブルスもルーシーも、ヴォルデモート様も、何もかもが憎く思えて来て……けれど、やっぱりみんな大切なのよ。 思いが混乱して、八つ当たりしたり泣き喚いたり…私、とってもセブルスたちに迷惑を掛けてしまったわ。 酷い人間でしょう? 結局、私は貴方たちとは違うのよ。友の為に命を懸けられる、グリフィンドール気質のあなたと、まず自分とセブルス、子供の幸せを守りたくて何も言わなかったスリザリン気質の私。 全て見て見ぬふりをしたわ。幸せの中に逃げようとしたのよ。 だけど、何もしなかった私が一番良い目を見るなんて…本当、馬鹿げてるわよね。 この学校に来て、驚いたわ。ロンが飼っているネズミ、どう見てもピーターなんですもの。 それでも、最初は半信半疑だったわ。ピーターは死んだものだとばかり思ってたから、似てるだけなのかしらって。 けど、ピーターは私の視線に耐えれなかったのね。ある日、突然私の元へやって来て全てを話したわ」 ――私は、嫉ましかった… 脳裏に甦る彼の酷く震えた声に、は沈痛な面持ちで俯いた。 「…私が、ピーターを裏切らせてしまったのね…」 「それは違う」 懐かしい声にははっと視線を上げた。 そこには、人間の姿に戻ったシリウスがいた。 髪は伸び放題、体は痩せこけ、頬骨がくっきりと浮かんでいる。 目も落ち窪んでいたが、その瞳の輝きだけはぎらぎらとを見下ろしていた。 「シ、リウス、シリウス…!」 は恐る恐るその手を伸ばし、彼の頬に触れた。 がさがさの、強張った頬。 自分が夫と子供に囲まれて幸せを感じていた時、彼はあの監獄で独り耐えていたのだ。 犬の姿の時には感じなかった、会えなかった十二年の差をこれ以上に無く感じた。 「シリウス!」 湧き上がる感情に押さえが利かなくなる。は膝立ってシリウスの首に腕を回し、しがみ付く様に抱き着いた。 「ごめんなさい、ごめんなさい…」 その痩せ細った胸元に幾つもの涙が落ちる。 「…」 シリウスの腕が、そっとを包み込む。 は、漸くシリウスと再会したのだと実感した。 「…大丈夫か?」 暫くして、漸く泣き止んだの目尻にそっと口付けを落す。 昔と同じその仕種に、は少しだけ微笑んだ。 「大丈夫よ、パッドフット」 「それは良かった、ストリクス」 そして昔の様に、とは行かなかったが、二人は少しだけ笑いあった。 「さっきの話だが、ヤツが裏切ったのはお前の所為じゃない。ヤツの弱さだ」 でも、と反論しようとするの唇にそっと指を当て、シリウスは首を振った。 「それともう一つ。お前は母親なんだから、家族を一番に想うのは当たり前だ。ジェムとリリ、そして、新しく生まれてくる子を守ってやれ。 …それが、ジェームズとリリーへの手向けになると、私は思う」 シリウスの言葉に、は泣きそうな笑みを浮かべながら「ありがとう」と震える声で囁いた。 彼はの前髪を掻きあげ、その額に口付けを落す。 「私はこんな事になってしまったけれど、、お前は幸せで在れ」 私たち全員が不幸になってしまったら、ジェームズに文句を言われてしまう。 そう肩を竦めるシリウスに彼女は微笑み、背を屈めたシリウスの額に同じ様に口付ける。 「ええ、幸せを量り売りできるくらい幸せになってあげるわ。そして、あなたに売りつけるのよ」 そう笑うと、シリウスも「代金はまけてくれ」と微笑んだ。 (終) +−+◇+−+ シリウスの言う「家族」に、スネ先生は含まれてません。(笑) 妊娠二十〜二十三周目くらいの感じで書いてます。なので、十月から十一月くらいです。 本当はクィディッチの後が良かったんですが、そうなると真冬だし…真冬に外の散歩はマズイだろ、という事でこうなりました。 所で、呼び寄せ呪文はある程度の距離は限定されていると思います。が、今回無視しました。(爆) あと、「新学期」でリーマスが、ヒロインはジェームズたちの隠れ家を知らないと言っていたのに、ヒロイン、ジェームズたちの家に掛け付けてます。この理由はまあ、「涙」で判明します。 セブがシリウスを嫌いなのはあの直情さだと思います。もしあの時シリウスの目論見が達成されていたらセブはリーマスに食い殺されてただろうし、当然リーマスはその咎で処罰を受けるでしょう。勿論ジェームズとピーターも共犯と見なされるだろうし、人狼を入学させたダンブルドアにも処罰の矛先が向かうかもしれません。 でもシリウスは恐らくそこまで考えていなかったと思います。なので私的には「シリウスは学問以外はかなりのバカで愚か者」だと思ってます。え?私、シリウス好きですよ?(嘘臭い) ただ単に、嫌いだから死んでしまえ、と思ったらそうしただけ、って感じで。その悪い意味での直情気質をセブルスは嫌悪していたんだと思います。 ・・・が、ウチの場合はそれに加えて悪戯四人組の中でシリウスが一番ヒロインと仲が良かったので、それも敵視の一因になっているかと。 関連タイトル:「新学期」、「家族」、「雪」、「涙」、「真夜中のパーティー」 (2003/06/17/高槻桂) |