屈辱




朝、着替えを済ませたハリーは最後にネクタイを締め、ベッドサイドのチェストに立てられている鏡を覗き込んだ。
髪を整えるでもなくじっと鏡の中の己を見詰めて数秒。
「あっ」
一瞬、鏡の中の光景が揺らいだ。
来た。
「おはよう、ハリー」
鏡の中の自分にそう笑いかけると、なんと鏡の中のハリーは同じ様ににっこりと笑って
『やあ、おはようハリー』
そう返して来た。




遡る事一ヶ月。
ハリーは通常ならば体験する筈の無い体験をした。
別世界の「ハリー」が自分達の前に飛ばされて来たのだ。
原因は時軸鏡と呼ばれる、鏡に映った者を似て非なる時間軸へ引きずり込む禁呪の掛かった鏡の事だ。
どうやらそれに触れた所為でこちらの世界に飛ばされて来たらしい。
元の世界に戻る為には向こうから引き戻しの為の魔法を使ってもらうしか手立てはなく、もう一人のハリーはそれまでの期間をこちらの世界で過ごす事となったのだ。
それは一週間にも満たない期間だったけれども、こちらのハリーに大きな影響を与えるのには十分だった。
もう一人のハリーを迎えに来たのは、なんとあのセブルス・スネイプだった。
あちらの世界でもやはり彼は陰険教師だという事で、ハリーは彼が迎えに来たという悲劇にもう一人のハリーを哀れんだ。
だが、そこで眼を見張る、いや、これほど驚愕という言葉の似合う事はないだろう。
もう一人のハリーは迎えにやって来たスネイプの前に立つや否や素直に謝罪するわ抱き着くわ。
果てには抱きかかえられ(勿論スネイプに)嬉しそうに寄り添って消えてしまった。
つまりそれは。
少なくとも一つの世界では、ハリーとスネイプの中が(かなり)良好だという恐ろしい事になっているわけで。
何処をどうしたらそうなるのかは全く持って不明なのだが、まあ、もう彼らに会う事はないだろうし。
考えないでおこう。
ハリーたちはそう結論付けていた。
そんな騒動から数日後の朝食の席でハーマイオニーが「寝癖が付いてるわ」と手鏡を渡して来た。
ハリーの髪は元からくしゃくしゃとしており、多少寝癖が付いていようと分かりはしない。けれど彼女は「身だしなみを整えるのは男女関係無く最低限の礼儀よ」と聞かなかった。
ハリーは鏡を見ながら確かに多少跳ねているようにも見える個所を軽く手櫛で梳いていると、不意に虚像が揺らいだ。
『あれ?』
何と鏡の中の自分が小首を傾げたのだ。勿論ハリーは首を傾げてなどいない。
『ねえ、ロン、この鏡おかしいよ』
鏡の中の「ハリー」はハリーを指差しながら隣りへと喋りかけている。
「え?何が?」
鏡からの声をハリー自身の声と勘違いしたロンがひょいとハリーが手にしている手鏡を覗き込んだ。
すると同じ様に鏡の向こうにもロンが現れ、『どこが?』と「ハリー」を見る。
「え?僕、今何も話してないよ?」
『あれ?僕の声が聞える?』
「ね、おかしいだろ?」
『ほら、この鏡おかしいよ。僕喋ってないのに喋ってるんだ』
「さっきから何してるの?」
そこにハーマイオニーが加わった。
『あ、ハーマイオニーだ』
だが、彼女の姿は鏡に映らず、その代わり鏡の中のハリーとロンが驚いていた。
「…何?これ」
「何って…君の手鏡じゃないか」
『ハーマイオニー、ちょっとこれ見てよ!』
「どれ?」
「今のは僕じゃないよ」
すると今度は鏡の向こうにハーマイオニーまでもが現れ、先程の彼女と全く同じ反応を示した。
「どうなってるんだい?君の鏡は」
『どうって普通の手鏡よ』
「いや君に聞いたんじゃなくてさ、ああいや君もハーマイオニーなんだろうけど」
「ていうかこれって何なの?魔法?マジックアイテム?」
「だから普通の手鏡だって言ってるでしょう?」
『じゃあ何でこんな事が起こったのさ』
次第に二人のハーマイオニーとロン、合計四人での「手鏡がおかしい」と「普通の手鏡よ」の言い合いが続いた。
手鏡を持ったまま四人のやり取りを聞いていたハリー二人はこっちはこっちで話す、という結論に達したらしく四人を無視して話し出した。

「『え?!じゃあ君はあの時の「ハリー」なの?!』」

二人のハリーの上げた声に四人は漸く言い合いを止めてそれぞれのハリーを見た。




「多分、時軸鏡の何かしらの後遺症でしょうね」
その日の夕食後、ハリー達は談話室で今朝の出来事を相談していた。
あれから三人は暇あらば手鏡を覗いていたのだが。(お陰でマルフォイ辺りにからかわれたが)
向こうと繋がる時と繋がらない時と、その時々だったが少しずつ分かって来た事がある。
まず、鏡なら何でも構わない事。
繋がった先の世界は数日前にこちらに飛ばされて来たハリーの世界だという事。
ハリー同士が映っていないと繋がらないという事。
それらを踏まえると、思い当たるものは時軸鏡しかない。
だが、こちらの世界での時軸鏡は四枚存在した内の三枚は廃棄、残りの一枚も何処にあるのか不明であり、あちらの世界の時軸鏡も既に廃棄されてしまったという。
「あちらのハリーに何かしらの後遺症が残っていて、それでハリーと鏡を媒体として次元を繋げてしまったと考えるのが一番無難だわ」
ハリーは彼女の説明に唸りながら壁に掛けられた鏡を見る。
「あっちはもう真夜中だね」
あちらの世界とこちらの世界は五、六時間程の差がある。どうやらあちらの世界の方が少しだけ先を進んでいるらしい。
あちらのハリーがこちらの世界に居る時、彼は自分達と同じ生活習慣だった。それならば恐らく今頃はベッドの中だろう。
「え?」
だが、不意に鏡が揺らいだ。
ロンとハーマイオニーが慌てて辺りを見回す。幸い談話室の中には彼ら以外居なかった。
『あれ?』
むこうのハリーも驚いたようで、きょとんとして鏡の中からこちらを見ている。
シャワー上がりなのか、パジャマ姿の彼の髪は濡れて大人しくなっている。
『あ、そうか、そっちはまだ消灯前なんだね?』
「うん、でもそっちは夜中だよね?どうして…あれ?そこ、何処?」
てっきりシャワールームに居ると思っていたが、どうも彼の背後の景色がおかしい。グリフィンドールのシャワールームはもっと明るい部屋だったはずだ。
『ここ?スネイプ先生の部屋』
「「「は?」」」
三人の声が綺麗に揃った。
『いや〜、やっぱりジャパニーズスタイルは良いよね。深めのバスタブにお湯をたっぷり張ってそこにゆっくり浸かるの。いつかオンセンっていう所に行ってみたいよ』
「いや、そうじゃなくてさ」
「何で君がスネイプなんかの部屋に居るのさ?!」
『なっ、何でって…その…べっ、別に何だって良いでしょう?!』
鏡の向こうで赤くなるハリー。
三人の脳裏に一瞬にしてある仮説が浮き上がった。
「ま、まさか…」


『何を騒いでいる』


鏡の中から聞えた低い声に、三人は思わず姿勢を正してしまった。
この声は、紛う事無くセブルス・スネイプの声だ。
『あ、先生、これですよコレ。さっきお風呂の中で話してたやつ』
だが「ハリー」は平然と彼が居るだろう方を向いて話し掛けている。
『…ああ、あれか』
声と共に彼の姿が鏡の中に現れた。彼はいつものローブ姿ではなく、漆黒の寝間着を纏っていた。
そして「ハリー」と同じくその髪は濡れ、その輪郭に沿って張り付いている。
『……』
すると彼はじろじろと三人を見回し始めた。三人はとてつもなく居心地の悪い思いをしながらその視線に耐えていたが、やがてハーマイオニーが耐え切れずに問い掛けた。
「あ、あの、スネイプ先生はやはりこの現象は時軸鏡の影響だと思いますか?」
「良く聞いてくれた!」という視線と「バカ、余計な事は言うなよ!」という視線を受けながらハーマイオニーは鏡の中のスネイプを見詰めた。
『そう考えるのが一番妥当であろう』
すると彼は意外なほどあっさりとその応えを返して来た。
『本来なら時軸鏡を作動させる為には正しい呪文を唱えなければならない。だが今回の場合、ハリーは呪文を唱えぬまま鏡に触れた。つまり時軸鏡の誤作動を引き起こしたのだ。
そうするとやはりこれは時軸鏡誤作動の後遺症のようなものだろう。時軸鏡を通ったハリーとそちらの世界のポッターが鏡という媒体に映る事によってこういった現象が起こったと考えるのが一番妥当だ』
『じゃあ、僕らが映っていればそれだけで繋がっちゃうの?』
「ハリー」の問いかけに彼は隣りに立つ少年を見下ろしてそれを否定した。
『恐らくどれだけ映るかという問題ではない。眼だ。映った己の目と視線が合う事によって二つの世界が繋がる。視線を合わせるという事は思いの外大きな意味を持つ行為なのだ。恐らく視線を合わせる事がスイッチとなり、あちらとこちらが繋がるのだろう。お前から聞いた話によるとそれは鏡から姿を消すまで続くようだな』
言い終えると鏡の向こうのスネイプは眉を顰めた。
何せ三人が揃いも揃ってぽかーんとして自分を見ているのだから。
「…スネイプが親切だ…」
ロンが唇を戦慄かせながら呟く。
「やっぱりこっちのスネイプと性格が違うんだ」
だが、ハリーの言葉に彼と同じ声がそれを否定した。
『ううん、こっちの先生も普段はあんな感じだよ。陰険で不親切で嫌味ったらしくて人の事一方的に目の仇にして口を開けばグリフィンドール五点減点!』
ね?と傍らの男を見上げ、不機嫌そうな表情で見下ろしてくる男に「でも」と鏡の中のハリーは笑った。
『二人の時は凄く優しいんだよね』
男の表情は変わらなかったが、嫌味も言わずふいと逸らされた視線が本人にも無自覚にそれを肯定してしまっている。
「ねえ、ハリー」
不意にハーマイオニーが口を開き、鏡の中のハリーを見上げる。
「私、さっきから気になっている事があるんだけど…いえ、本当に些細な事で…私の聞き間違いならそれで良いんだけれど…」
『うん、なに?』
すると彼女は一瞬躊躇うような素振りを見せ、けれど「あのね、」と切り出した。
「さっきあなた、お風呂の中で、って言ったわよね?…一緒に入っていたの?」
一瞬、世界が凍り付いたかと思った。(ロン談)
が、「ハリー」の顔が一瞬にして真っ赤になり、三人はそれを肯定と受け取らざるを得なかった。
『だっだっだっだって僕動けなかったんだもん仕方ないじゃない!!』
その発言が更なる墓穴を掘っていると気付いたのは彼ではなく傍らの男だけで。
「動けなかったって、どうしてだい?」
ロンの何気ない、本当に何気ない疑問に鏡の中のハリーはそれこそ倒れるのではないかというほど赤くなってしまった。
『…余り苛めてくれるな』
見兼ねたスネイプが真っ赤な顔で口をぱくぱくさせているハリーを攫うように抱き上げ、鏡の前からその姿を消してしまったので向こうとのコンタクトは強制終了となった。
「「「………」」」
置き去りにされた形となった三人は暫く無言だった。
ぎこちなく彷徨っていたロンとハーマイオニーの視線が不意にハリーへと向けられる。
「そんな哀れむような目で僕を見ないで…」
居た堪れなくなってハリーは俯いて己の顔を両手で覆った。




『それでね、スネイプ先生ったら何て言ったと思う?!』
全て、あちらの「ハリー」の所為だ。
ハリーはそう自分に言い聞かせる事にした。
『もう信じられない!!もうすぐ夏休みで逢えなくなるって言うのに』
そう、自分は毒されているだけだ。
『そうか、ってそれだけ!!』
だから、有り得ない。
『しかもすぐキスで誤魔化すんだから!!』
必死で恋している彼を少しだけ羨ましいと思ってしまったのも、毒されているだけなのだ。
ハリーは何度も何度も己にそう言い聞かせた。
『あ、愚痴ばっかり言っててごめん…』
疲れの見える顔色に気付いたのか、「ハリー」が鏡の向こうで謝罪する。
「ううん、僕も色々聞いてもらってるからお互い様」
「あの日」以来、どうやら彼は別世界だから、と開き直ったらしくことある毎に惚気や痴話喧嘩を報告してくる。
彼らの関係は当然公には出来ないもので、且つ周りには二人は憎み合っていると思われている。
疑われない様、その様に振る舞って来たストレスの逃げ道を見つけたかのように少年は語って語って語りたくった。
(僕とスネイプが恋人関係ねえ…)
一瞬にして寒気が全身を駆け巡り、ハリーは服の上から腕を摩った。



魔法薬学の授業でハリーはじっと教壇の上の男を見詰めていた。
あちらの自分は何故この男に恋しているのか。
そればかりを考えていて、ドラコの妨害によって作っていた薬が駄目になってしまっても全く腹が立たなかった。
が、
「ミスター・ポッターはこのまま残る事」
調合に失敗した事が当然スネイプの目に付き、いつもの様に減点されて今回はそれに加えて居残りまで命じられてしまったハリーは、生の薬草にくっ付いているオオアブラムシを一匹ずつ摘んでは容器に移す作業をひたすらやらされていた。

「先生、先生は僕を抱きたいと思います?」

いい加減寝ながらでも出来そうなくらいの数を摘み、その終わりを見せた頃、ハリーは緩やかになってしまった思考の中に浮かんだ疑問を口にしてしまっていた。
「…先生?」
一向に返ってこない応えに、もしかして知らない内に出ていってしまったのだろうかと視線を上げると、スネイプは変わらず教壇の席に居た。
ただし、レポートの添削をして居た筈の手は止まり、何とも言い難い表情でハリーを見下ろしてはいたが。
「…ミスター・ポッター?今、何と?」
彼の事だ、しっかりと聞えた筈なのに。
恐らく聞えてはいても理解の範疇外だったのだろう。
そんな彼の反応が珍しくて、ハリーは思わず正直に繰り返した。
「先生は僕を抱きたいと思いますか?」
「何処かで頭でも打ったのかね」
「残念ながら頗る健康です。僕はただ危険を冒してまで「僕」を抱く男の気持ちが知りたかっただけです」
スネイプの顔に珍しく驚きの色が広がる。
以前こちらの世界にやって来たもう一人のハリーと目の前のハリーが今でも交流がある事を知る良しもないスネイプは、当然ながらこの目の前のハリーが誰かしらに性行為を強いられたのだと勘違いした。
「…本人に聞いてみたらどうだね」
一応「貴方」がその本人です。とは言わなかった。
「人伝ですけど心底愛してるそうです。こんな子供に欲情するなんて、どういう神経してるんでしょうね」
「我輩の知った事ではない。第一、」
「痛っ」
指先に走った痛みにハリーは視線を手元に落す。
スネイプと話しながら弄んでいた薬草の棘にうっかり指を当ててしまったのだ。
「待て」
その人差し指を口へ運ぼうとしたのを止められる。スネイプは立ち上ってこちらへと歩み寄って来た。
「その棘には微量だが毒がある。貸してみたまえ」
ハリーがその手を差し出すと、彼の手がその手を取った。
以前の自分だったら、きっと今頃「スネイプに触られるなんて!」と寒気が全身を走っていただろう。
だが、今自分の体を駆け抜けたのは、痛いほどの痺れ。
そうだ、これはきっと毒の所為なんだ。
そう言い聞かせながら彼が取り寄せた薬を脱脂綿に含ませているのをじっと見詰める。
そして再び手を取られ、あの電流が走ったようなそれをまた少し、感じた。
「ナルカザシの棘には毒があると教えたのはつい昨日だった筈だが?」
僅かに血の珠が盛り上がる指先を濡れた脱脂綿で何度も拭いながらの不機嫌そうな声に、ハリーは素直に謝った。
「すみません」
いつもならそれでもスネイプの嫌味は続く筈だった。そして減点される。
だが、
「気を付けたまえ」
これ以上にないほど珍しく、彼は嫌味を言わなかった。それ所かハリーに対して「気を付けろ」と。
単なる気紛れだったのかもしれない、それとも先程の話に気を抜かれてしまっただけなのかもしれない。
けれど、ハリーは思わず微笑んでいた。


ああ、わかったよハリー。
この感情は、僕の意志とは関係なく僕を支配する。
拒む隙も与えないほど唐突に。


「何を笑っている」
使用済み脱脂綿をごみ箱に落し、薬瓶の蓋を閉めたスネイプが険しい表情でハリーを睨む。
だが、それは次の瞬間呆気に取られたものと変わった。

「僕、多分スネイプ先生が好きです」

固まっているスネイプを無視してハリーはオオアブラムシの入った器に蓋をする。
「僕としてはあなたへのこの感情は正直言って屈辱です。何が哀しくてあなたに好意を抱かなきゃならないのかってくらい。だけど、気付かない振りをするのはもっとむかつきます」
だから、とハリーはスネイプの視線を真っ向から見上げた。

「仕方ないからあなたを好きだって認めてあげますよ」

それじゃあ、失礼します。
ハリーは未だ硬直しているスネイプをそのままに地下牢教室を後にする。
グリフィンドール寮へ急ぎながら、ハリーはにやにやと笑みを零した。
「ああハリー、今日は僕の話を聞いてもらうよ!」









(END)
+−+◇+−+
大騒動、その後の仲悪い方のスネハリ。
こっちの二人をくっ付けるかくっ付けないか迷いに迷い、くっ付けない、と決めたのですが、ネタが浮かんでしまったのであっさり「やっぱりくっ付ける」と覆しました。(爆)
そしてスネ先生誤解したまま。まあくっ付けるとは言っても微妙な所で終わらせたのでどっちつかずのまま。続き読みたい方、居ます?とは言っても続き書くとなったら中途半端なエロになると思いますけどね。
関連タイトル:「大騒動」
(2003/08/05/高槻桂)

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