夏休み ハリーはもう何度も辿った道を歩いていた。 この道を初めて歩いたのは、ハリーが四年生を迎える為の準備期間、夏休みの事だった。 クィディッチ・ワールドカップ観戦の為にウィーズリー家を訪れるもっと前。 夏休みが始まったばかりの頃にこの道を辿った。 その時は、隣りに一人の女性が居たのだが。 ハリーが今向かって居るのは、その女性の家だ。 初めて訪れた時はどうして良いのか分からず、そして彼女の夫が苦手で縮こまっているばかりだった。 だけど、あれからもう五年も経った。 五年の間に何度もこの道を辿った。 時には煙突を辿った事もあるけれど、あの感覚が余り好きではないハリーはこうして歩いて訪れる事を好んだ。 勿論、ホグワーツを卒業した今、箒でひとっ飛び、それも悪くない。 けれど、やはりこうしてじっくり景色を眺めながら歩くのが一番好きなのだ。 別に何か面白いものがあるわけでも、訪れる度変化があるわけでもないけれど。 視線の先で、目的の場所がハリーの歩みにしたがって徐々に近付いてくる。 こうして、少しずつ彼らの家へ近付いていく、この感覚が好きなのだ。 「いらっしゃい、ハリー!」 門を潜ると同時に一人の女性が玄関から飛び出して来た。 「こんにちは、先生」 先生と呼ばれた彼女は、ホグワーツで特殊声楽の教師だった。 「もう先生じゃないでしょう?」 だが、ハリーと長男であるジェムの卒業と同時に教職から退き、今では昔と同じ様に主婦業に専念している。 何度も言われたその台詞に、ハリーは少し照れたように笑って「はい、さん」と言い直した。 「宜しい。ちょうどレモンパイが焼き上がったの。さ、入って入って」 室内へ足を踏み入れると、レモンとバターの香りが仄かに漂っている。 「リドール!ハリーが来たわよ!」 階下から呼び掛けると、微かに「はーい」と子供特有の高い声が返って来る。 ハリーは何時の間にか指定席になっているソファの右側に座り、お茶の準備をしているを眺めていた。 最初の頃は手伝うと申し出ていたハリーだったが、その度に断られ続け、今ではもう何も言わなくなっていた。 手伝う事より、静かに待っている事が彼女に対する礼儀だと覚えたからだ。 「はい、どうぞ」 切り分けられたレモンパイと冷えた紅茶のグラスが置かれる。 レモンとバターの香りに混じって、アッサムの仄かな香りが微かに鼻孔を擽る。 「リーマスは元気?」 はハリーの向かいに座り、紅茶のグラスを手にしながら聞いた。 「とっても。最近は満月が近くても新しい薬のお陰で大分調子良いみたいだし。今日ここへ行く事を話したら、宜しく伝えてくれって。本当なら一緒に来たかったみたいだけど、いくら調子が良くても満月が近い事に代わりは無いからって」 「そう。会えないのは残念だけど、元気そうで良かった。ムーディ先生は?」 ハリーは苦笑してひょいと肩を竦めた。 「相変わらず」 ムーディとは元闇祓いの、ホグワーツで「闇の魔術に対する防衛術」を教える教師だ。 ハリーは卒業してすぐ彼の元でより詳しい魔術を学び始めた。 「闇の魔術に対する防衛術」の教師になる為だ。 ムーディははっきり言って奇人変人の類ではあるが、知識は今まで出会った防衛術の教師の中ではピカイチだった。 ただ、ハリーという後継者を持ってからは幾分か大人しくなったものの、それでも時折常人には計り知れない事を騒ぎ出すのが難点だ。 「未だにトランクに閉じ込められていた時の話題に触れると癇癪起こすんですよ」 「まあ、それは仕方ないわよ」 やれやれ、と溜息を吐くハリーに、はくすくすと笑う。 すると、リビングへの扉が開いて一人の少年が顔を出した。 「あら、リドル。貴方も食べるでしょう?レモンパイ。飲み物は何にする?」 「アップルが良い」 リドルの応えには立ち上り、キッチンヘと向かう。 「やあ、久し振り、リドル」 笑って挨拶をすると、リドルはまじまじとハリーを見ていた。 座っているハリーと立ったままのリドルはちょうど同じくらいの背丈で、その父親譲りの黒い目とハリーの翡翠の目が真っ向からぶつかった。 「僕の事、忘れちゃった?」 優しく問うと、リドルはくすりと笑った。 子供らしくない、唇の端を歪めた笑い方だった。 「忘れるはずも無いだろう?ハリー・ポッター」 その幼い唇から漏れた言葉に、ハリーは目を見開いた。 「君、まさか…」 この少年がトム・マールヴォロ・リドルの記憶を宿している事は知っていた。 がその身に彼を宿したのを目の前で見たのだから。 だが、産まれて来た子供は普通の子供だった。 少なくとも、前回会いに来た時まではハリーによく懐いた年相応の幼児だったはずだ。 「そう、お蔭様で全て思い出したよ」 そう薄く笑って彼はハリーの隣りに腰を下ろした。 余りに幼いその体はソファに沈むように座っている。 「僕自身、こんな事が可能だとは思わなかったけどね」 すると、がアップルジュースの入ったグラスを片手に戻ってくる。 途端、彼の表情は和らいだものとなった。 「はい、どうぞ」 リドルの前にそのグラスを置き、レモンパイを切り分けてリドルに渡す。 「ありがとう、母さん」 ハリーはリドルを見詰める。 リドルの表情は、先程迄とは打って変わって柔らかい。 「あら、どうしたの?」 じっと見詰めるハリーに気付いたが声を掛けられ、言葉を詰らせたハリーの代わりにレモンパイを一口食べたリドルが応えた。 「思い出話の種を蒔いたんだよ」 「あら、リドル、ハリーを苛めちゃダメよ?」 「苛めてないよ。大体、僕だって消えかけたんだからお互い様さ」 「ハリーのは正当防衛だと思うけれど?」 二人のやり取りを呆然と眺めていたハリーは漸く我に返った。 「さんは、知ってたんですか…?」 ハリーの問いかけに、はあっさりと「知ってるわよ」と答えた。 「だってこの子、馬鹿正直に記憶が戻ったって言い出したんだもの」 「馬鹿は無いだろう?」 「え…じゃあスネイプ先生やジェムたちは…?」 の夫であるセブルス・スネイプも知っているのだろうか? 「知ってるわ。ジェムも。リリは知らないけどね」 「どうせそう何年もしない内に忘れてしまうのだから構わないさ」 リドルの言葉が今一つ正しく理解できなくて、ハリーは鸚鵡返しに聞いた。 「忘れる?」 「そう。僕の「トム・マールヴォロ・リドル」としての記憶は少しずつ消えていっている。僕はもう、以前の父と母の顔も思い出せないよ。母に至っては名前すら思い出せない。 恐らく、あの頃と同じくらいの年になる頃には、自分が幼い頃は産まれる前までの記憶を持っていたという事実だけを覚えているだろう。今日のこの出来事も、覚えていても会話までは覚えていないだろう。 だけど、それを惜しいとは思わないよ。 誰だって幼い頃の記憶は成長と共に薄れていくものだ。僕の場合はその「思い出」が少しだけ多いだけで。 僕はもう、理解した。 僕は幸せだと。 だから、「トム・マールヴォロ・リドル」を忘れる事に心残りはないよ。 寧ろ、それはとても嬉しい事だ。僕はそうして漸く他の誰でもない、「リドル・スネイプ」になれる」 「リドル…」 ハリーは驚きに目を見開いた。 なんて穏かな目をするんだろう。 日記の中で見たリドルはとても冷めた眼をしていた。その奥で、野心の炎がちろちろと燃えている。 そんな目をしていた。 なのに今はどうだ。 目の前の幸せを甘受している。 嬉しそうに、愛しそうに。 「?どうしたの?もう一切れ食べる?」 視線に気付いたの勧めに、ハリーは曖昧に頷いて小皿を差し出す。 「はい」 「ありがとう、ございます…」 新たに切り分けたパイを乗せた皿を受け取り、ハリーはその先端にフォークを食い込ませる。 この人が、変えたんだ。 この人が、リドルにこんな穏かな視線をさせているのだ。 凄いと思った。 ただ単純に、とても凄いと思った。 何だ、来ていたのか。 言葉には出さなかったが、リビングに姿を現わしたの夫、セブルス・スネイプはそんな表情をした。 「セブルスも食べる?」 何が、とはテーブルの上を見れば明らかで。 セブルスは頷くだけでその意思表示をし、早速切り分けている妻の隣りに当たり前の様に腰掛けた。 「あ、そうだ。僕、新学期から偶にムーディ先生の助手としてホグワーツに行く事になりましたから」 セブルスにそう告げると、彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。 「……」 だが何も言わない。 実はかなりの愛妻家の彼の事だ、隣りで喜ぶ妻の表情を曇らせたくないのだろう。 「あら、おめでとう!良かったわね!」 そんな夫の隣りで、は心から嬉しそうにハリーの成長を喜んでいる。 その光景に思わず吹き出すと、やはり何も言わないが鋭い視線で睨まれた。 だが、一年の時からそれを受け続けたハリーにとって、今更という感じで。 「凄んでも無駄ですよ。何年その顔見て来たと思ってるんです?いい加減馴れますよ」 そう言うと、彼は舌打ちをして漸く口を開いた。 「貴様は中身まで父親に似て来て腹立たしい限りだな」 「誉め言葉として受け取っておきますね」 笑顔で返すと、「そんな所もヤツにそっくりだ」と言わんばかりに彼は視線を逸らした。 「それにしても、懐かしいですよね。僕、今でもよく覚えていますよ。先生が突然「三人目が欲しい」って言い出した時の事」 黙々とレモンパイを食べていたリドルとセブルスの手がぴたっと止まる。 「そんな事もあったわね」 苦い顔をする夫の隣りで当のはからからと笑っているばかりだが。 「母さん、そんな事したのかい」 リドルが呆れたように言ってもやはり彼女は笑うばかりで。 「そう、しかも授業中に。お陰でその後は自習になって有り難かったけどね」 睨み付けてくる視線を無視し、ハリーはグラスに半分ほど残った紅茶をまた少し飲んだ。 「お陰でジェムが暫く口を聞いてくれなくて」 面白おかしくそう言う母に、リドルは「ジェムの気持ちが良く分かるよ」と溜息を吐いた。 「でもね、貴方を見た時わかったの。「ああ、私はこの子を産むんだわ」って」 向けられた穏かな母の視線に、リドルは「母さんには敵わないな」と苦笑した。 そんな光景を眺めながら、改めて、ハリーは思った。 やはり「あの人」とは違うのだと。 確かに、リドルは「あの人」の一部だった。 けれど、スネイプがダンブルドア側に付いてデスイーターではなくなったように、彼もまた、「あの人」の一部ではなく、一人の人間として歩み出した。 やがて近い未来、彼が今日この日の事を忘れてしまっても、 「リドル、ジュースのおかわりは?」 「グラスに半分だけ貰うよ」 僕は、決して忘れないだろう。 (END) +−+◇+−+ ・・・とりあえず、ムーディ×ハリーでは無いと思います。多分きっと。 個人的に、この話と「誕生日」は日記リドル救済話です。 で、この話の中ではヴォルデモートは当の昔にハリーさんがさくっと倒しちゃいました。(爆) 関連タイトル:「誕生日」、「驚かせたくって」 (2003/06/06/高槻桂) |