さようなら





「もし貴方が死んだら、これ、下さい」
冗談で唇に乗せた言葉に、老人は顔の筋肉を微動だにさせず答えた。
「良かろう」
すると言い出した本人である青年はその翠の目を丸くし、やがて困ったように笑う。
けれど、その唇が再び音を奏でることはなかった。




その年の冬、アラスター・ムーディが永遠の眠りに就いた。
彼はもう随分前から俗世から離れた生活をしており、彼が屋敷から出歩く事は滅多に無かった。
だが、奇人と称された彼にもその時間を共有し、そして遺して逝く相手がいた。
それが、ハリー・ポッターだった。
一時はあの英雄があの奇人の下に付いたという事で多少騒ぎ立てられたが、今ではそんな事を口にする者もいなくなった。
ムーディの後を継いで闇払いとなり、そして今はホグワーツにてDADA教師として教鞭を振るっているハリーはダンブルドアに頼み込んで己に与えられた私室と自宅とを特別に煙突ネットワークを繋いでもらっており、彼は毎日隙あらば暇あらばとムーディの元へと帰っていた。
そんなある日、ハリーはダンブルドアに暫く休みが欲しいと告げた。
ダンブルドアは理由も聞かずそれを許可した。ただ励ますように、ハリーの背を優しく叩いただけだった。
だが、その休暇も長くは無かった。
半月と経たぬ内に彼は再びホグワーツにその姿を現わし、ダンブルドアに己の同居人の死を伝えた。
「土葬より火葬がいいんですって。あの人らしいですよね」
ただ半月前と違っていたのは、視線を上げた彼の左眼が鮮やかなブルーへと変わっており、それは本人の意思とは関係なく四方八方へと視線を転じていることだった。
貰ったんです、と彼は事も無げに笑った。
「以前、死んだら『魔法の目』を下さいって言ったら、今日、死ぬ間際に本当にくれたんです。わざわざ僕の目のサイズに合わせてまでくれて」
僕がぐるぐる回る視界に馴れなくてふらふらしてた時はあの人まだ生きてましたけどね、とどうでもいいような事を付け加えて彼は可笑しそうに笑う。
人々の慰めの言葉や悔やみの言葉は彼に届いているのだろうか?
彼は始終穏かな表情でそれに対応していた。




煙突を辿ってホグワーツから自宅へと戻ったハリーはその穏かな笑みを捨て、色の消えた表情で階段へと向かう。
ムーディは決して一階で休もうとはせず、両脚が上手く動かなくなってからもそれを変えようとしなかった為に最後の一年は殆どを二階の自室で過ごしていた。
彼自身は嫌がったが、そんな彼の身の回りの世話をするのがハリーの役目だった。
いつも食事や着替えを片手にこの階段を上っていた。
だが、今自分の手には何も無い。
一枚のドアの前でハリーは二度ノックをし、「アラスター、入るよ」と応えが返ってくる筈も無い室内に入室の旨を告げてその扉を開く。
「ただいま」
ハリーはベッドに歩み寄り、そっとその枕元に腰掛ける。
その視線の先には静かに、呼吸音すらなく眠り続けるムーディの姿があった。
けれどハリーはいつもと同じ様に彼へと語りかける。
「今日、ホグワーツへ行って来たんです。僕の代打の先生、リーマスみたいな雰囲気のお爺さんで、キャンディを貰ったんだ。甘い物は心の安定に役立つからって。僕、もうすぐで三十なのにね」
でもアラスター。
「僕はもうすぐ三十歳だけど、でも言い方を変えればまだ三十歳すら迎えてないんだよ?」
そりゃあ辛うじてだけど、とハリーは苦笑する。
「そりゃあ僕が貴方くらいの年になる頃には貴方は居ないだろうと思ってたけど、せめて僕が五十歳になるまでは一緒に居て欲しかったなあ…」
そっと腕を伸ばし、彼の傷だらけの顔に指を滑らせる。
「アラスター……せんせい、ムーディ先生……」
もう何年も前に止めてしまった呼び方は、その音と共に様々な記憶を呼び起こす。
その中には、この日を警告する彼の姿もあって。
「ムーディ先生…」
ごめんなさい、とその唇が戦慄いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい先生、僕には無理でした…辛いんです、叱って下さい、自業自得だって、先生、お願いです…」
導を無くした幼子の様に、ハリーは暖かみの無い強張った体を抱きしめる。
「置いて逝かれるとわかっていたのに、覚悟をしていた筈なのに…!」
けれどその生体にあらざる強張った体に、この腕にもう少し力を込めたら砕けてしまうのではと思えてハリーはそっと彼から身を起こした。
今は、と無理に歪めて笑みを象った唇が囁く。
「今は、さようならをしても良いですか?今はまだ、辛すぎるから…もう少ししたら、きっと貴方を感じる事が出来るから……」
だから、少しだけ、さよならです。
ハリーは老人のがさついた薄い唇にそっと口付け、少しだけ、泣いた。








(終)
+−+◇+−+
全く泣けない話になってしまってゴメンナサイ。なんかもう、ねえ。
ていうか始めは家ごと先生の遺体燃やす気でした。(爆)先生との思い出のあるもの全て燃やして…とか思ったんですが。本とかアイテムとか勿体無いなームーディ先生の事だから闇の魔術に関する詳しいのとかわんさかありそうだし…と思ってやめました。いっそいつまでも微妙に引き摺ったままのハリーで行こうかと。
無理して笑っている時ってどうでもいい事まで言っちゃったりしません?蛇足的発言というか。
あとはこの後の話も考えてあるんですが、タイトルが決まらないので後回しに。
関連タイトル:「夏休み」、「休日の過ごし方」
(2003/08/13/高槻桂)

戻る