ストレス




そろそろ限界かな、とは薄々感じてた。
けれど、レポートに追われている内に日はどんどん過ぎていって。
気付けば、どうしようもない所まで来てしまっていた。


は歌う事によって魔法に近い、またはそれ以上の力を発揮する一族の人間だ。
この事はダンブルドアを始めとする教師陣しか知らない。
がその力の所為で特別視されるのを嫌った為だ。
所で、「声の一族」の人間は総じて歌う事がこの上なく好きだ。
勿論、中にはそう思わない者も稀に居るのだが、それでも彼らはとにかく歌う。
それは好き嫌いに関らず、長い間歌わないと体調を崩し、衰弱してしまうからだ。
彼らにとって歌う事は娯楽でなく、死活問題なのだ。

その歌を、はこの一ヶ月、全く歌っていない。

例え鼻歌でも回りに影響を与える可能性はあるから、と幼い頃から言い聞かせられていた。
十歳の時にイギリスの従兄の家にやって来たのだが、その時は自室が与えられ、はいつも母から教わった防音の魔法を部屋にかけ、思う存分歌ってきた。
だが、ホグワーツに入学してからはそうも行かない。
ダンブルドアの計らいで、歌いたい時はハグリットに匿ってもらえるようになった。
ハグリットはの歌声を痛く気に入り、いつでも訪れる様に告げた。
一年の頃は暇を見てはハグリットの元で歌っていた。
だが、二年になって授業が増え、宿題も増えた。
それに追われている内に一ヶ月も過ぎてしまい、は愕然としたものだった。
一度それを自覚してしまうと、後は坂道を転げ落ちるかのごとく体調は悪化していく。
さすがにやばいと感じたは、今日の放課後こそはハグリットの小屋を訪れなければ!と意気込んでいたのだが。

、顔色が悪いぞ」

ははっとして視線を上げた。
「大丈夫か?」
目の前には、心配そうにを見る友人、セブルスの姿があった。
「うん…」
大丈夫、の言葉は飲み込んだ。
声を発する度、歌いたくて仕方ない。
その焦燥は一層の気分を悪化させるので、必要以上に喋りたくなかった。
それを声を出すのも辛いくらい体調が悪いのだと勘違いした(強ち間違いではないのだが)セブルスが「医務室へ行け」と告げた。
「ロンドリッツ教授には僕から言っておくから」
はセブルスの忠告に甘える事にした。
ただし、向かう先は医務室ではなくハグリットの小屋だが。
「ありがと…」
付添いを申し出るセブルスを「大丈夫だから」と断っては来た道を戻っていく。
幾つかの角を曲る頃には、授業の時間が迫って来た事もあって人通りは無くなっていた。
もう少しで中庭へ下りる、という頃になっては強い目眩を感じて膝を付いた。
後少しだ、と気を抜いたのが悪かった。
一気に不快感が増し、は「ああきっと二日酔いってこんな感じなのね」と半ばやけっぱちにそう思う。
(あー…どうしよう)
視界がぐるぐる回る。
歌いたい。歌いたくて堪らない。
は無意識に歌ってしまわない様、両手で口元を覆った。
けれど、ここで歌ってしまったら少なくとも中庭の芝生はハグリットの身長を追い越してしまう程成長するだろう。
歌っている所さえ見られなければ自身は問題ないのだが、伸びに伸びた芝を刈らなければならない管理人が哀れだ。
だが、もう歩く所か立ち上るのも困難だ。
(ハーグリーット、助けてー!)
心の中で叫んでみるが無駄というもので。
歌ってしまうか否か、葛藤していると「おい、大丈夫か?」と声をかけられた。
(誰?)
持ち上げた視線の先に、セブルスとはまた違った黒髪の男が立っていた。




がセブルスに医務室へ行けと言われている頃。
「あ、テキスト間違えた」
そう言って立ち止まったのは、シリウス・ブラック。
「あー、変身術と魔法史の教科書、似てるからねえ」
隣りを歩いていたジェームズがけらけらと笑う。
「他のは持っていっておくから、ダッシュして取ってきなよ」
そう手を差し出たリーマスに、シリウスは魔法史のテキスト以外を渡した。
「悪い」
シリウスはそれだけ言い残し、魔法史のテキスト片手に駆け出した。


「全く、誰だよこんな似たり寄ったりな表紙にしたヤツ!」
シリウスは一人で文句を垂れながら自分のベッドに魔法史のテキストを放り出し、代わりに変身術のテキストを取り出した。
「うっし、もう一っ走りするか!」
肖像画の裏から抜け出し、階段を段飛ばしに駆け降りる。
中庭に面した長い廊下を駆け抜けながら、シリウスは黒い塊を見つけた。
「ん?」
その塊の前で立ち止まってみると、それは蹲った女子生徒だと分かった。
口元を両手で覆いながら小さく蹲っている。
「おい、大丈夫か?」
はっとしたように少女が顔を上げた。そのネクタイの色に、シリウスは内心で顔を顰める。
(スリザリンかよ…ん?)
シリウスは少女を何処かで見た事がある顔だと思った。
そうだ、彼女はセブルス・スネイプとよく行動を共にしている少女だ。
(寄りによって、ってやつだな…)
その辺で先生でも捕まえて任せるか、と考えていると、少女は口元を覆っていた手を下ろし、「お願い」と掠れた声で囁いた。
「ハグリットを、呼んで来て…お願い…」
「ハグリットを?」
マダム・ポンフリーではないのか?
だが、少女はハグリットを、と苦しげに表情を歪めながらしきりに繰り返す。
一瞬、ハグリットを呼びに小屋へ向かいかけたが、シリウスは「こっちの方が早い!」と少女を抱きかかえた。
「きゃっ」
突然の事に少女が声を上げたが、彼女は再び手で口元を押さえてしまった。
シリウスは少女を抱えて中庭を突っ切り、ハグリットの小屋まで駆けていく。
「ハグリット!」
両手が塞がっている為、シリウスは扉の前でハグリットを呼んだ。
すると扉が開き、ハグリットがその大きな姿を現わした。
「おお、シリウスか、どう…!」
彼はシリウスの腕の中の少女を知っているらしい。
ハグリットは二人を中へ通し、をソファに座らせるように指示した。
、大丈夫か?」
ハグリットの問いかけに、と呼ばれた少女は首を横に振り、急くようにローブから杖を取り出す。
シリウスが何をするのかと見ていると、彼女は天井に向けて呪文を唱える事なく杖を降った。
ぱきん、と微かに音がした途端、シリウスは微かな圧迫感を感じた。まるで、隙間のない箱に閉じ込まれた様な気分だ。
するとは杖を仕舞い、立ち上ってすうっと息を吸った。

Ahー……

息と共に吐き出されたもの、それは、高く澄んだ声だった。
歌うでもなく、ただ一つの音が優しくシリウスの聴覚を擽り続ける。
声が、こんなに美しいものだと初めて知った。
肺活量の限り声を出したは、どこか陶然としたような虚ろな視線で棚の上辺りを見上げていた。
そして、再び息を吸い込む。

その唇から漏れたのは、まるで清浄な山、その奥深くに滾々と湧き出る水の様に澄み、空気に溶けてゆく柔らかな声。

歌詞も無く、声の流れに統一性も無い。
ただ思い付くままに、感情のままに音を紡ぐその姿は、神々しささえ感じさせた。

どれほど時が流れたのか分からない。
一瞬の様にも思えれば、とても長い時間聴いていた様な気もする。
彼女が「ああ、すっきりした」と息を吐き、シリウスは漸く我に返った。
「今日は特に凄かったぞ」
「ごめんなさい。ずっと堪えてたから、爆発しちゃったみたい」
照れ臭そうに笑うに、ハグリットは「いやいや」と首を振る。
「本当に凄い」
「そんな事…あっ!」
そういえば、とが声を上げる。
どうやらシリウスの存在は忘れ去られていたようだ。
「あの、ごめんなさい!あと、ありがとうございます」
頭を下げるに、シリウスは「ああ、いや…」と曖昧に返す。
「どうやらシリウスはまだ心がどっか行っちょるみたいだな」
「その、驚いたっつーか、何て言って良いのかわかんないけど…凄く、綺麗だった」
そう言うと、は「ありがとう」と頬を朱に染めた。
「ええと、私、スリザリン二年の。あなたは?」
「俺はシリウス・ブラック。グリフィンドールの同じく二年」
「じゃあシリウス、あの、ごめんなさい、私の所為で授業に遅れてしまって…」
そう言えば、自分はテキストを取りに戻った帰りだったんだ、と今更になって思い出した。
だが、シリウスは「良いさ」と苦笑して肩を竦めた。
「釣りが来るくらい良いモン聴かせてもらったし」
「でも…あ、そうだわ。ハグリット、ペンと羊皮紙貰える?」
はハグリットから羽根ペンと羊皮紙を受け取ると、それに何やら書き始めた。
暫くして、書き終ったそれを四つ折りにしてシリウスに渡した。
「これ、担当の先生に渡して。授業は何?」
「変身術だけど」
受け取った羊皮紙を眺めながらそう返すと、「よかった」と彼女は笑った。
「マクゴナガル先生ならきっと分かってくれるわ」
私はこれから医務室へ行かないといけないから、と続けるに、シリウスは「途中まで送るよ」と申し出た。
もう少し、この少女と一緒に居たい。
シリウスはそう思っている自分に苦笑する。
「それじゃあ、ハグリット、ありがとう」
「また来りゃいい」
シリウスがテキストを小脇に抱えながら扉を開けると、ぱきんと何かが割れる音がした気がした。
扉の外に何かあっただろうか、と見回すが、割れるようなものは何もない。
「どうしたの?」
中庭を横切りながら首を傾げていると、が不思議そうに見上げて来た。
「いや、さっきなんか割れた様な音が…」
すると、は「ああ、」と得たように頷いた。
「それ、きっと防音の魔法が解けた音よ」
そしては自分の「歌」の力をシリウスに説明した。
倒れかけていた理由、音を防がなくてはならない理由。
「この事は、他の人には言わないで欲しいの」
の言葉に、シリウスは「条件がある」と悪戯っ子の様な笑みで彼女を見下ろした。
「またお前の歌、聴かせてくれよ」
するとは「勿論」と微笑んだ。
そして二人はそれぞれ医務室と変身術の教室へと別れた。
「ミスター・ブラック、随分のんびりしているのですね」
授業の半分近く遅れてやってきたシリウスに、マクゴナガルの厳しい視線が突き刺さる。
「すみません。これ、渡してくれって」
折り畳まれた羊皮紙を彼女は訝しげに見詰め、シリウスから受け取って広げた。
「……」
手紙を読んでいたマクゴナガルの視線がちらりとシリウスを捕える。
「この事は…」
彼女の事は、他言無用。
マクゴナガルの目はそう言っていた。
「分かってます」
シリウスがそう頷くと、マクゴナガルはその手紙を再び折り畳み、ローブの中へ差し入れた。
「席に就きなさい。テキストは七十二ページです」
「はい」
シリウスがリーマスの隣りに腰を下ろすと、「何があったの?」とリーマスが潜めた声で問い掛けて来た。
だが、シリウスは唇の端を持ち上げて笑う。
「まあ、色々と」
授業が終わってからも彼がそれ以上を語る事はなく、それでもいやに上機嫌のシリウスの態度に、ジェームズたちはあの時シリウスに付いて行くべきだった、と舌打ちした。










(END)
+−+◇+−+
えーっと、親世代、悪戯四人組との出会い編です。…その予定でした。んが、実際書き上がってみればシリウスとしか出会っていませんでした。あらあら。
この話の始めの方を書きながら、「ああ、やっぱコイツはジェムの母親だ」と思いました。(爆)
ロンドリッツ教授は「真夜中のパーティー」でも出て来た占い学の先生です。え?どうでもいいって?そりゃそうだ。
ていうか、ハグリットの口調がサッパリです。
ちなみに手紙にはただ単に「シリウスは私の所為で遅れたので、シリウスを叱らないであげて下さいね」みたいな事が書いてあるだけです。
関連タイトル:「スリザリン」
(2003/06/17/高槻桂)

戻る