記憶が蘇ったのは、三年前の事だった。
けれどもう過去に囚われるほど孤独ではなかったし、平穏を好む様になっていた。
蘇った記憶も少しずつ消えていき、だけどそれを惜しいと思う事は無く。
恐らく自分はこのまま、何処にでもいるような普通の魔法使いとして生きていくのだろう。
この暖かな家族に囲まれて。
それがどれほど幸せな事か、自分は知っているのだから。




ある真夜中、リドルは突然目を覚ました。
「……」
ぼうっと岩天井を見上げる。
何か夢を見ていた様な気がする。
余り、好ましくない夢を。
だがそれは既に記憶の中には留まっておらず、全く思い出せない。
けれど無性に不安になってリドルは体を起こし、ここがホグワーツでの自分達の部屋だと確認する。
それでも不安は消えない。寧ろ膨れ上がってリドルはドアへと視線を向けた。
あの扉の向こうには、本当に両親が居るのだろうか。
誰も居ないのではないだろうか。私室にも、研究室にも誰も居ない。廊下に出ても誰とも、ゴーストにすら出会わず、校長室も空っぽなのではないだろうか。
そしてホグワーツを飛び出した自分の目の前に現れるのは。
「……」
膨れ上がった不安の中から、恐怖が生まれる。
リドルはドアを凝視したままベッドを降り、ゆっくりとドアへと近付いていく。
ドアの前に辿り着くと、恐る恐る右腕を上げ、コン、と一度だけノックした。
二度叩く事は出来なかった。
もし応えが無かったら?
ノックした瞬間、そう閃いてしまった。
寝ているのかもしれない、違う部屋に居るのかもしれない。
だけど、もし。

「リドル?」

ドアが開かれ、薄明かりが差し込んでくる。
そして、
「母さん…!」
リドルは現れた相手に抱き着いた。
「リドル?どうしたの?」
優しく背中を叩かれ、そして抱き上げられる。
リドルは再びに抱きつき、その首筋に顔を埋めた。
「怖い夢でも見たの?」
無言で首を横に振るリドルを抱えたままはベッドへと戻って腰掛けた。
「わからない…覚えて無い…ただ…」
顔を上げると読んでいた本を閉じた父親と目が合った。
「誰も居ないような気がして…」
視線を伏せ、母の膝の上から床へと降りる。
「ごめんなさい」
そしてそのまま自室へと戻ろうとすると、父の低い声が彼を呼びとめた。
振り返ると、父は何やら言おうと口篭もっていた。そして彼の意を察したが笑い、自分と彼の間をぽん、と叩いた。
「リドル、一緒に寝ましょう」




と共にやって来たリドル・スネイプは現在八歳で、その容姿は黒髪に黒い目、母親に似た顔立ちの少年だ。
各教科の助手をしているとは違って彼自身は暇だった為、彼はダンブルドアにある事の許可を得た。
それは、授業への参加だ。
彼の記憶は五年生までで途絶えている。そして現在残っている授業の知識も恐らく他の記憶と同じ様に消えていくだろうとリドルは察した。その為、その「記憶」を自分自身の「知識」として書き換える為にその時間を使いたいと告げたのだ。
ダンブルドアに許可を得たリドルは主に呪文学、薬草学、変身術、魔法薬学、そして闇の魔術に対する防衛術の授業に出席するようになった。
四年生レベルまでは図書館に篭もり、または父親に尋ねた。
そして五年から七年生までの授業は出れる限り彼は出席していた。
どうせそう何年も経たない内に入学するのだから、という言葉には「今知りたいんです」と唇をへの字にして返し、果てには時間が足りないからとタイム・ターナーまで使いたいと言い出す始末。(さすがにそれは却下されたが)
リドルの八歳児として不自然すぎるその行動も、生徒達は「あのスネイプの息子だし…」と何処か納得してしまっており、リドルは他の生徒達と同じ様に杖を振り、薬草の手入れをし、魔法薬の調合をしてレポートも提出していた。


「何をそんなに焦っておるのじゃ」


図書館の片隅で分厚い魔法史の本を広げていたリドルは聞き覚えのある声に顔を上げた。
「別に、焦ってなどいませんよ、ダンブルドア先生」
ひょいと肩を竦めてみせると、ダンブルドアは「そうかの?」とその長い髭を皺くちゃの指で梳きながら言う。
「どうも、無理をして知識を貯えておるような感じがしてのぉ」
リドルの表情が微かに強張る。
「記憶を、追い出したいのじゃな?」
ダンブルドアの言葉にリドルは何も言わず、ただ硬い表情で目の前の老人を見上げている。
「『彼』の記憶を追い出し、完全に「リドル・スネイプ」だけになりたくて知識の上書きをしているよう、わしには見える」
「……」
リドルは杖を取り出すと手にしていた本を軽く叩く。すると本は元の棚へと戻っていった。
「僕は今の家族が大切なんです。万が一にも彼女を哀しませるわけにはいかない。その為には無知ではいられない。ただ、それだけです」
そして図書館を出ていこうとするリドルの背に、ダンブルドアの声が掛かる。
「リドルよ、記憶に惑わされてはならぬ。君はもう『彼』ではない。それを忘れてはならんぞ」
リドルは立ち止まる事無く図書館を後にした。
「…そんな事、わかっているさ」
苛立ちの色を隠そうともせず、彼は呻くように呟いた。




その夜、見回りを終えたスネイプが私室へと戻ると、彼の妻はすでに寝室に引っ込んだ後だった。
物音に気づいて寝室から顔を覗かせた妻に、スネイプは構わなくて良い、と視線でベッドに戻る様促して脱衣所へと向かう。
彼は広い浴槽には浸からず、シャワーのぬるい湯で身を清めて寝室へと向かった。
室内は暗く、広いベッドの上で枕を背凭れにして本を読む妻の頭上にだけ光球が明々と灯り、その存在を誇示している。
「目を悪くする」
その右隣に身を滑り込ませると、彼女は微かに笑って読んでいた本を開いたまま差し出した。
「貴方がいつもやっている事よ」
二十年以上を連れ添って何度も繰り返された応答にスネイプは片眉を僅かに持ち上げるだけで差し出された本を受け取った。
そして彼女と同じ様に枕を背凭れにしてその開かれた個所に目を通す。それはつい半日ほど前にスネイプが読んでいた、ある薬に関する考察書だった。
「リドルは」
彼女はスネイプに凭れ掛かりながら彼の手にしている本の続きを追い始める。
「ぐっすりお休み中」
そこで会話は途切れ、時折男の指がページを捲る音が微かに響いた。


ドタンッ


不意に静寂を破る音が隣りの部屋から聞えた。
二人は顔を見合わせる。
明らかに今の音は何か大きなものが落ちた音だ。
「…ベッドから落ちたのかしら」
然程寝相の悪くない末っ子だが、その認識を改める日が来たのだろうか。
がベッドを降り、奥の部屋へと続くドアをそっと開けた。
少しだけ開けて暗い室内を覗き込むと、案の定リドルはベッドではなく床の上に居た。
だが、彼はそのまま床で頭を抱え、小さく蹲っている。
「リドル?」
ドアを開け放して彼の傍らに膝をつくと、彼は焦点の合わない目を床に向けてぶつぶつと呟いていた。
「違う、違う…僕じゃない…!」
「リドル?どうしたの?」
その小さな肩に手を添えようとすると、乾いた音を立ててその手を叩かれた。
「出ていけ!僕はもうお前とは違うんだ!僕はリドル・スネイプだ!お前なんかじゃない!僕の中から出ていけ!!」
「リドル!」
違う、出ていけ、そう繰り返し叫ぶリドルをは抱きしめた。
「放せ!僕はお前に戻らない!絶対に!!」
逃れようともがくリドルをはきつく抱きしめ続ける。
「…大切なんだ…」
するとリドルは暴れるのをやめ、焦点の合わない目を天井に向けて首を横に振った。
が大切なんだ…父さんも、ジェムもリリもハリーもみんな…大切なんだ…」
その見開かれた漆黒の瞳に涙が盛り上がり、両の目尻を伝って彼の肩に落ちる。
「奪わないで…僕から奪わないで…!」

「誰も奪いはしない」

暗闇の中、更なる闇がリドルの前にその姿を現わした。
「だけど、僕は…」
「お前は誰より幸せになる為に生を受けた。それを躊躇う必要はない」
ゆったりと響くその低音にリドルは瞬き、漸く目の前の人物を認識した。
「…父さん…」
そして自分を抱きしめているを見上げ、母さん、と呟く。
「…ごめんなさい…」
「リドル…」
いつかの様に項垂れ、視線を落すリドルを彼女は抱いたまま立ち上り、その腕の中の子を夫にそっと渡した。
「何か暖かい飲み物を入れるわ」
彼女は視線を伏せたまま部屋を出ていき、キッチンヘと向かった。




口を閉ざしたリドルを抱えてキッチンへ向かうと、彼女はホットミルクとカフェ・オレをそれぞれのカップに注いでいた。
「もう出来るから、座ってて」
微かに震え、けれどそれを懸命に隠そうと明るい声を出すの姿にスネイプは微かに目を細め、そして何も言わずリビングのソファへと向かった。
リドルをソファに座らせ、その隣りに腰を下ろすと三つのカップを乗せたトレイを手にしたがやってくる。
三つのマグカップがそれぞれの前に置かれ、そしては彼らの向かいのソファに腰掛けた。
スネイプがホットミルクのカップをリドルに手渡し、リドルは白い水面に少しだけ息を吹きかけてそれを啜った。
微かに感じた蜂蜜の味に、リドルは漸く体の力を抜いたようだった。
「…ホグワーツに来てから、たまに夢を見るようになったんだ…」
リドルは手の中のカップを見下ろしながらぽつりと呟くように告げた。
「いつも同じ夢だった。僕は夢の中で目を覚ます。余りにも静に思えて僕はベッドから降りて父さんと母さんの寝室の扉を叩くんだ。けれど応えはなくて、扉を開けるとそこには誰も居なくて…僕は不安になって部屋中を探す。けれどやっぱり居なくて僕は廊下に出るんだ。
廊下は明かりは灯っているのに物音一つしなくて、ホグワーツ中を駆け巡るけれど、その間に見廻りの教師やゴーストも、絵の中の住人達ですらその姿を消していて、僕は校長室へ駆け込んだ。
…やっぱりそこにも誰も居なかった。
僕は居ても立ってもいられなくて、ホグワーツを飛び出すんだ。
けれど、門を潜った瞬間、目の前に男が現れる。
ローブを目深に被っていてそれが誰だか分からない。けれど何故か僕にはわかった。
ヴォルデモートだと」
いつもそこで目が覚めるんだ。
リドルはそこでもう一口ホットミルクを啜る。
「…けど、今日は違ったんだ…続きがあった。
彼は僕を指差して嗤った。
『何度生まれ直そうとお前は私の一部だ…忘れる事など許さない』
僕はそれを認めたくなくて、彼から逃げた…そこで目が覚めたんだ…」
「……」
「…リドル」
が何かを言おうと口を開きかける。だがそれは言葉を紡ぐ事なく閉じられてしまい、スネイプは恐らく彼女が言おうとした事をリドルに告げた。
「その夢を見るのはお前がトム・M・リドルの記憶を持っているから見るのではない。お前がその記憶を恐れているからだ」
「恐れ…?」
「その記憶がある限りまた闇へと身を投じてしまうかもしれない、我輩たちに仇為すやもしれない…その恐れや不安が形を成したものが、その夢だ」
リドルはじっと父を見上げている。そこに答えを探すように。
「…そんな記憶がなくとも闇へ堕ちる者は大勢いる。だからお前がその記憶を持っているから闇に堕ちるなどという確証は何もない。全てはお前の心一つだ…それを忘れるな」
リドルは視線を手もとのカップに落し、少しだけ笑った。
「…ありがとう…僕は…少し、焦っていたんだと思う…」
そう呟き、リドルはカップの中身を飲み干して「ごちそうさま」とテーブルに戻して立ち上った。
「結構、楽になったよ…ありがとう、父さん、母さん…おやすみなさい」
偽りのない笑みを浮かべ、リドルはキッチン側の扉から出ていった。
「……」
やがて軽い足音が聞えなくなると、とスネイプの間に沈黙が降りる。大抵こういう時話し始めるのはだったが、この日は違っていた。
「……泣いていたのか」
問いかけではなく確認の色をした夫の台詞には困ったように微笑った。
「…私ね、何も言えなかったの…私が強引に彼の記憶をお腹に宿さなかったらこんな事にはならなかったんだって思ったら…私がリドルに何かを言う権利はないって思えたの…」
スネイプは立ち上ると彼女の傍らに立ち、彼女の手の中にある中身の減っていないカップを取上げてテーブルに戻した。
「人は多かれ少なかれ悩むものだ。お前が気に病むほどではない」
「でも…」
の隣りに腰を下ろしたスネイプは、彼女の体を引き寄せて抱きしめた。
「それに、何もしないよりはあの方も報われるだろう…」
その声には妻への労りと、何故か憮然とした色が混じっており、は夫を見上げる。
「…その割に憮然としてるのね」
「あの方は結局お前の心に強く住み着いている。それが少々気に入らないだけだ」
漸くの顔に無理のない笑みが差す。
「それはあの人に対して?それとも私?」
いつもの調子を取り戻した妻に、スネイプは安堵の笑みを僅かに浮かべた。
「どちらにも、だ」








(END)
+−+◇+−+
16歳までの「トム・M・リドル」としての記憶はあるけれど、彼はあくまで「リドル・スネイプ」であり、「トム・M・リドル」とは別人だという話を書きたかったんですが・・・どうでしょう。
ていうか実は川の字で寝るのが書きたかっただけというのは置いておいて。
こなおにはリドル坊やを救うのはヒロインの役目だろ、と言ったのですが、書いてみたらパパがお株を奪ってました。そしてパパがシリアスで出張ってくるのは久し振りだと気付く自分。ごめんね、セブ。
彼らの私室の間取りをこなおに送ったら、もしリドル坊やが真夜中に起きた時、夫婦の営み真っ最中だったらどうするんだろう、な指摘をされ沈黙。確かにあの夫婦、未だラブラブ(死語)ですしね。
まあ結論としては、リドル坊やの場合フツウに「お邪魔様」とか言いながら部屋を通り抜けて行くだろう、と。それにしても普通の家を地下に押し込めたような間取りです。スネ先生だけだった時は他の先生と同じだったんでしょうけど、妻と子供の三人部屋なのでダンブリーが改装してくれたんだよ、と。
地盤沈下しないか心配です。(爆)まあそこは魔法でどうにか。(御都合主義万歳)
関連タイトル:「家族」、「誕生日」、「夏休み」、「伝説」
(2003/08/06/高槻桂)

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