01.桜咲く頃
(柳生×乾/テニスの王子様) 柳生も乾も、高校三年間の終わりを迎えつつあった。 それぞれ学校のエスカレーターに乗っかって高等部に持ち上がった二人だったが、春からは同じ東京の大学に通う事になっている。 「近くに部屋を借りようと思ってます」 喫茶店で紅茶を啜りながら柳生はそう切り出した。ベルガモットの香りが鼻腔を擽る。 「そうだね。神奈川から通うよりはその方が楽だしね」 カップを両手で支え、緩やかに回しながら乾はそう同意した。カップを満たすのはシナモンが強めにブレンドされたチャイだ。 かちゃり、と小さな音を立てて柳生の手にしていたカップがソーサーに戻される。 「乾君」 「うん?」 改めて呼ばれ、乾は小首を傾げて柳生を見返した。 「あなたさえ良ければ、一緒に暮らしませんか」 カップを緩やかに回していた乾の手が止まる。 そのままたっぷりの間が流れ、柳生がその沈黙に耐え切れずやはり取り消そうと口を開いたと同時に乾が答えた。 「それは同居?それとも、同棲?」 からかいの色は無い。ただ無色な声で問いかけてくる。 迷い無く答えた。 「同棲の方です」 乾は再び沈黙する。 時期尚早だっただろうかと柳生は思う。 けれど付き合って三年半。ずっとこの日を待ち望んできたのだ。 同じ大学に通う。それは好機だと思えたのだ。 すると乾は一口チャイを飲み下し、ちろりと唇を舐めた。 「いいよ」 その艶めかしい仕草に見惚れ、一瞬何を言われたか理解できなかった。 「は」 「だから、いいよ。一緒に暮らそう」 柳生がまじまじと乾を見つめると、彼は恥ずかしそうに顔を背け、「あんまじろじろ見るな」と小さく文句を言った。 自然と浮かぶ笑み。 「ありがとうございます」 桜の咲く頃には、こうして二人で紅茶を飲む場所はきっと、店ではなく、二人だけの部屋で。 02.ひなたぼっこ (切原×乾/テニスの王子様) 立海大附属高等学校の屋上でだらんと寝そべる二つの影があった。 長身の青年とその体に寄り添う青年。 「切原君、予鈴が鳴りましたが」 二年、乾貞治と、 「聞こえませーん」 一年、切原赤也。 「確か君のクラスの次の授業は英語だったね」 「気のせいっす。自習っす。そういう乾さんだっていいんすか」 「俺は優等生だから今頃保健室にいる事になってるよ」 「うわずりー。じゃあ俺も保健室ってことで」 だって、と赤也は続ける。 「こんなぽかぽかでぬくぬくなのに起きろっつーのが間違ってんすよ」 「あーうん、それはわかる。動きたくない」 「っしょー」 このまま昼寝しちゃいましょうよ、という誘いに乾はあーと間の抜けた応えを返す。 「ていうか、現在進行形だよね」 「てことで今更戻っても遅いってことで」 「あ、本鈴鳴った」 「はい、おやすみなさーい」 「おやすみなさーい」 03.雨の日の面影 (知念×乾/テニスの王子様) 突然振り出した驟雨に、乾は窓を閉めながら小さく微笑った。 「沖縄来てる時に雨に出くわすと、昔を思い出すよ。帰りたくないって泣きじゃくって雨の中飛び出したっけ」 振り返ると、知念がウーロン茶のペットボトルを傾けて乾のグラスに継ぎ足している。 「ありがとう。あの時、ちいちゃんが追いかけてきてくれたんだよね」 「ぃやー、なきぶーやったやっさー」 「今は泣き虫じゃありませんー」 「はぁやぁ、今やて毎晩泣いぶっ」 乾が咄嗟に枕をぶん投げ、それが見事に知念の顔面に命中した。 「ばかっ!」 ずるっと枕の落ちてクリアになった視界の先では乾が顔を真っ赤にしていて、それが愛らしくて枕をぶつけられた事に対する文句など吹っ飛んでしまう。 「ハルはちむがなさんなぁ」 「可愛いとか言うな!」 また何かを投げつけられてはたまらないので、知念は腕を伸ばして乾を己の腕の中に閉じ込める事にした。 04.蝉が鳴いた日 (真田×乾/テニスの王子様) 今日、今年初めての蝉の鳴き声を聞いた。 漸く夏がまた廻ってきたのだと実感する。 あれから、一年が過ぎたのだ。 一年前、俺と真田は全てを捨てて逃げ出した。 真田の親に、俺たちの関係がばれたのだ。 当然のように彼らは猛反対で、その結果、俺の親にもばれた。 俺の親はそういうことには寛大で、最初こそ戸惑っていたようだったが、最後に顔を合わせた時、両親はただ、好きにしなさい、後悔のないように、と笑っていた。 普通の大学生だった俺はともかく、真田は留学から帰ってきてプロとしての第一歩を踏み出したばかりの頃だっただけに、真田の方は凄まじかった。 けれど、真田のお祖父さんが俺を指差して「汚点」呼ばわりした途端、真田が切れた。 出て行く、と啖呵を切って、そのままテニスバッグも持たず、俺の手を引いて飛び出した。 頭に血の上っている真田に、俺はただ呆然と、半ば引きずられるようにして走った。 蝉の鳴き声が煩かったことしか覚えていない。 そのまま電車に飛び乗って、新幹線に乗り換えて、随分、寒い所まで来てしまった。 幸い、お互い通帳こそ持ってなかったがキャッシュカードは持っていたので途中の駅で全額引き出しておいた。 二人で狭い部屋を借りて、新しい口座も作って、携帯電話も買って最低限の身の回りの物を揃えた。 突発的な逃避行について真田は何も言わなかった。俺も何も言わなかった。 お互いに何とかアルバイトと貯金で日を繋ぎ、一ヶ月が過ぎた頃、漸く俺は俺の親にだけは連絡してもいいだろうかと尋ねた。 俺たちの事を受け入れてくれていた二人にだけは、これ以上心配かけたくなかった。 真田も俺の親の事は気がかりだったのだろう、了承してくれた。 電話すると、母が出た。彼女は笑って許してくれた。 あちらさんには内緒にしておいて上げるから、住所教えなさい。身の回りのもの、足りてないんでしょう? ありがとう、と言うだけで精一杯だった。泣いてしまいそうだった。 それからは時折俺の親とは連絡を取りながらも、それでも帰ろうとはしなかった。 真田の失踪はテニス雑誌にも載ったが、真田によってその雑誌はすぐに捨てられてしまった。 真田はあれからテニスラケットを買いなおして、夜になるとストリートテニスへ軽く打ちにいくようになった。俺はもう現役を退いて久しいので簡単な打ち合いの相手しか出来なかったけれど、その球に真田の葛藤が込められているようで辛かった。 それでも俺は、帰ろうとは言い出せなかった。 引き裂かれるよりは、このまま二人でこの街に埋もれてしまったほうがいいような気がして。 あれから、一年が過ぎた。 こちらで蝉が鳴き出したという事は、あちらではもう疾うに鳴き盛っている頃だろう。 嘗ての仲間たちは今頃、どうしているだろうか。 青学の仲間たちは、真田との関係を知っている。 だからテニス雑誌で真田の失踪が掲載された時、マンションの方には何回も電話が掛かってきたらしい。親は適当に誤魔化してくれたらしいが。 不意に蝉の鳴き声が途絶えた。 俺は意識して息を深く吸い込み、傍らの男を見た。 「ねえ、真田、もう、帰ろうか」 どこへ、とは言わない。それを決めるのは真田だ。 「…ああ、そうだな」 テニスラケットをバッグにしまい、俺たちはベンチから立ち上がる。 さあ、帰ろう。 05.潮風と散歩道 (日吉×乾/テニスの王子様) 「で、なんで突然海なんですか」 夏でもないのに突然海に行きたいと言い出した男を睨みつけると、彼はあはーといつも以上に間の抜けた笑い顔で日吉を見下ろした。 「えーだって恋人同士でデートって言ったら海なんでしょ?」 またおかしな雑誌に影響されたらしい。 この男は頭は良いが頭が悪い。勉強は出来るのだ。データテニスをやるだけあって頭の回転も速い。なのに一般常識が疎い。 知識としては有るのだろうが、それを自分に適用するという術を持たない。 その上好奇心旺盛で、すぐ雑誌やテレビの知識に食いついて実践したがる。 頭が良くて行動力のあるバカほど厄介なものは無い。 その点ではウチの部長もこの人と同類だと日吉は思う。(だから二人はあんなに話が合うのだ) 「確かにそういうのもありますけどね、普通夏に来るもんです。今秋ですよ、秋」 寒いんですよ風が! 「そうだねー」 駄目だ、何言っても暖簾に腕押し糠に釘。のほほんと流されるだけだ。 「でもね、夏ってなるともう今年は終わっちゃったから来年って事になるでしょ?」 「だからなんなんです」 「そんな頃には海行きたかった事なんて忘れちゃってるよ?」 もう何処から突っ込んで良いのかわからない。 「…そうですね」 好きにしてくれ。 06.紅の葉 (河村×乾/テニスの王子様) 想いを告げたのは、部活を引退して暫くしてからだった。 引退したといっても乾は相変わらず部活に顔を出していたし、他の三年連中も卒業までは顔を出すつもりのようだった。 そうやっていつものように部活を終えて、帰ろうとするその背中を引きとめた。 一緒に帰らないか、と誘った乾に、河村はいいよ、と穏やかに笑った。 家の方向は途中まで一緒だったから、連れ立って帰ることは良くあることだった。 紅葉しつつある街路樹を二人で眺めながら他愛も無い話をして、そして分かれ道の手前で乾は河村に告げた。 彼の事が恋愛感情で好きなのだと。 彼は少しの間きょとんとして乾を見つめていた。 そして、俺、男だよ?と小首を傾げた。 うん、知ってる。と返せば乾も男だよね?と聞いてきたのでそりゃあ勿論、と答えた。 河村は少し困ったように視線を彷徨わせた。 それもそうだ。友人だと思っていた男から突然告白されたのだ。しかも彼の性格からして同性同士で付き合うという選択肢など考えもしなかっただろう。 幸いにもその困惑に嫌悪の色は無く、ただ純粋に戸惑っているようだった。 なので畳み掛けるように続けた。 戸惑うのは分かる。けど俺の事が嫌いでないのなら試しに付き合ってみないか。それでタカさんが無理だと思えばそれで終わりにしよう。 彼は暫く考え込んだ後、聞いても良いかな、と口を開いた。 何で俺なの?乾、女子とも仲良いよね。 その問いかけに、乾は苦笑するしかなかった。 好きになるのに理由が必要?気付いたら好きだった、としか言いようが無いよ。 そう答えると彼は何も悪くないのに、あ、ごめん、と後ろ頭を掻きながら謝った。 改まって俺と付き合ってくれませんか?と微笑むと、彼は漸く事態を飲み込んだのか、かあっと耳まで赤くなってこくりと頷いた。 俺でよければ、ともごもごと言う彼に、乾は愛しさが込み上げて来るのを感じた。 タカさんがいいんだよ。 そう返して手を差し出すと、おどおどとしながら彼も手を差し出してきた。 きゅ、と握手をして、乾は微笑んだ。 「これからも、よろしくね」 07.夕立の予感 (河村×乾/テニスの王子様) 乾が空を眺めていたかと思ったら、不意に来る、と呟いて鞄から折り畳み傘を取り出して広げ始めたので河村はきょとんとしてそれを見た。 「え、どうしたの乾」 「夕立だ。今日は湿度が高くて蒸し暑いから高確率で降るとは思ったが、予想より雲の動きが速い」 ぱん、と軽快な音を立てて乾が傘を差したと同時にぽつ、と布地を打つ音がした。 「わ、本当だ」 河村は驚きと感心の声を上げた。 ぱた、ぱたたたっと布地を打つ音は秒刻みで増えていく。 「取りあえず、この傘だけじゃ狭いから何処か喫茶店にでも入ろうか」 「あ、うん」 乾は凄い。 普段の情報処理能力もそうだけれど、こういった天候にまで気を配れる細やかさは凄いと思う。自分なんて雲が出てきたことすら気付かなかったのに。 そう言って、もう一度乾は凄いね、と告げると乾が不意に立ち止まったので河村も立ち止まった。 「乾?」 すっと傘が頭すれすれまで低く下げられたかと思うと、乾の顔が目の前にあった。 ふ、と唇に当たる柔らかい感触。 思考が停止する。あれ、今の、なに? すいっと傘が持ち上がる。 呆然と乾を見ると、彼は苦笑してごめん、と謝った。 嬉しくてつい、と続ける彼を見つめながら、漸くキスされたのだと理解する。 その途端、全身の血液が沸騰したようにかあっと熱くなる。 乾と付き合い始めてもうすぐで一年になるけれど、手を繋ぐ以上の事はしたことが無かった。というか、考えたことも無かった。 元々そういうことに疎いという自覚はあったけれど、乾が自分に対してそういう欲求を抱いているかもしれないなんて考えたことも無かった。 「タカさん、行こう、濡れる」 「あ、あ、う、うん」 言われるがままにぎくしゃくと歩き出すと、暫くして乾が噴き出した。 「タカさん、右手と右足が一緒に出てるよ。…ごめん、忘れていいから」 穏やかに苦笑するその笑顔に、今度は河村から立ち止まった。乾も立ち止まる。 ざあ、と雨の音が煩い。 言わなきゃ、ちゃんと、言わないと。 「その、忘れたり、なんて、できないよ…だって、はじめて、その、き、キス、したんだ、乾、と…だから、忘れたりなんて、できないよ」 上手く、伝えられない。もどかしい。 けれど乾はそんな河村の思いを汲み取ったのか、大丈夫、と微笑った。 「ちゃんと、伝わったから」 ありがとう。 これからも、宜しく。 そして二人はまた身を寄せ合って歩き出す。 もう少ししたら雨は上がるだろう。 そうしたらきっと、空には虹が架かるのだ。 二人はお互いに顔を見合わせ、照れたように笑った。 08.冷たい手 (河村×乾/テニスの王子様) 河村の手が冷たい。 乾はその手を温めるように包み込み、タカさんの手、凄く冷たい、と苦笑した。 河村の父に、二人の関係をカミングアウトした。 きっかけは、父が持ってきた見合い話だった。 河村は父の知り合いの寿司屋で十年ほど板前修業をし、最近かわむら寿司に戻ってきたばかりの事だった。 戻ってきたといっても相変わらずの半人前扱いで、未だに誠意修行中なのだが、年齢的にはそろそろ結婚してもおかしくない。 けれど、父の持ってきたその話に河村は頷けない理由があった。 彼には、既に恋人がいる。だからその話を受けるわけにはいかない。 けれど今までそれを打ち明けることも出来ないでいた。 なぜなら相手は自分と同じ男である乾だからだ。 しかも乾は河村がかわむら寿司を離れている間、暇を見ては不在の彼の代わりに店を手伝いに行っていた。いわば父としても気心知れた仲なのだ。 だからこそ余計言い辛かった。 けれど見合いに乗り気の父を止めるには恋人がいるのだと言うしかなかった。 そうなればそれは誰だ、会わせろという流れになり、言えずにいると断りたいが為の出任せかと疑われた。否定すれば堂々巡りになり、最終的には親にも言えない様な相手なら別れてしまえとまで言われ、言わざるを得なかった。 乾なんだ、と打ち明けた時、父は暫くの間何も言わなかった。 そして長い沈黙の後、乾ってえとはる君の事かい、と確かめるように聞かれ、頷いた。 そしてまた長い沈黙が横たわり、いつからだと聞かれた。 中学三年の秋からだと答えると、父はまた黙り込んだ。 そして、はる君の都合のいい日に来てもらえ、とだけ言って居間を去った。 乾は今、外科医として某病院で働いている。 医大を卒業するまではちょくちょく店を手伝いに来ていたが、さすがに最近は余り姿を見せない。忙しいことは良い事だと父は以前笑っていたが、しかし今はそうも言ってられない。 連絡が欲しいとメールを送ると、その日の夜遅くに電話がかかってきた。 酷く疲れた声だった。 それでも優しくどうしたのと問いかけてくる声に、河村は一瞬声が詰まった。 そして、親父にバレた、とだけ漸く言うと、携帯電話の向こうでも沈黙が落ちた。 そして一言、そう、それで、とだけ聞いてきた。 河村に見合い話が来ている事は乾も知っていたので彼の事だ、この事態も予想していたのだろう。動揺は見られなかった。 親父が会いたがってる、と告げると彼はわかった、と言った。 そして彼は自分の都合の開く日を幾つか上げ、河村がその中の一つを選ぶと、じゃあその日に行くから、と応えた。 そして、今すぐ傍にいけなくてごめん、とも。 謝りたいのはこっちの方だ。けれど乾は河村が謝ろうとすると大丈夫、と謝罪の言葉を遮った。 大丈夫。 たったその一言で酷く気持ちが楽になったのを感じる。 だから、謝罪の代わりに全ての思いを込めて告げた。 ありがとう。 そして数日後、乾は河村宅を訪れた。 父と乾は久々の再会だったが、そこに笑顔は無かった。 重苦しい空気の中、河村はただ姿勢を正して座するしか術を持たなかった。 乾が口を開こうとしたのを制し、父は言った。 十年以上付き合ってるお前らに今更本気かどうかなんて聞かねえ。 ただ、覚悟はあるのか。おめえ、スポーツドクターとやらになりてえんだろ。 はい、と乾の凛とした声が響く。 でも夢の為に隆さんとの関係を疎かにするつもりも、その逆も有りません。 両方、貫きます。 そして父が隆、お前はどうなんだ。と見つめてくる。 俺は、乾とずっと一緒にいたいって思ってる。修行は勿論頑張るよ。かわむら寿司の名を落としたりしないよう精一杯努力する。だから、認めて欲しい。 父は腕を組み、黙って目を閉じた。 乾も河村もじっとそれを見つめて待つ。 やがて、父は腕を解くと同時に立ち上がり、居間を出て行ってしまった。 途端、緊張の糸が切れて詰めていた息を吐くと、乾の手がそっと河村の手を包むように握った。 「タカさんの手、凄く冷たい」 見ると、乾はいつかのように穏やかに苦笑していた。 「乾の手も、冷たいね」 「さすがに、緊張したから」 苦笑を交わすと、父が戻ってくる気配がして再び背筋を伸ばした。 「おう。待たせたな」 戻ってきた父は右手に日本酒の一升瓶、左手にグラスを三つ持っていた。 憮然とした表情のままそれをどんと卓袱台の上に置き、問答無用でグラスに酒を注ぎ始めた。 「あの、親父…?」 戸惑いながら声をかけると、父はグラスを取るように言い、二人がグラスを手にすると自分の手にしたグラスをずいっと差し出してきた。 「おら、乾杯だ」 「はあ」 言われるがままにグラスを差し出すと、かぁんと甲高い音を立ててグラスが合わされた。 呆然としている二人を尻目に父はぐいっと酒を飲み干すと、威勢のいい音を立てて卓袱台にグラスを置いて二人を睨んだ。 「いいか、中途半端な事しやがったら容赦しねえからな」 河村が目を丸くし、思わず傍らの乾を見ると、彼は河村の思いを肯定するように微笑んで小さく頷いた。 そして再び父親に視線を戻すと、彼は仕方ねえなあ、と言わんばかりに笑っていた。 ありがとうございます、と二つの声が重なった。 09.霜を踏む音 (河村×乾/テニスの王子様) 乾は高校を卒業すると同時に一人暮らしを始めた。 彼の通う大学の目と鼻の先にあるマンションの一室はいつ訪れても雑然としていて、河村が苦笑しながら片付けるのが常となっていた。 河村はと言うと父親の知り合いの寿司屋で修行中で、偶の休みは全て乾との逢瀬に費やしていた。 そんなある寒い冬の日のことだった。コタツに潜り込んでテレビを見ていると、不意に乾が聞いてきた。 「タカさんは俺とセックスしたいと思う?」 突然の問いかけに思わず硬直してしまった。テレビから笑い声が聞こえる。 キスは付き合い始めて一年近く経ってから漸くした。 それから何度もするようになって、漸く慣れてきたという状態なのに、それ以上なんてとんでもない。 河村の表情から理解したのだろう、乾はああ、はいはい、と河村が何も答えていないのに納得したように頷いた。 「聞いてみただけだからそんなに構えなくて良いよ。すぐどうこうしようとか思ってないから」 「え、えっと、その、乾は、したいって、思ってるの…?」 すると彼はあっさりとまあそれなりに、と頷いた。 「一応俺も健全な男の子ですから、好きな人と一緒に居ればそう思う時もあるよ」 恥ずかしくて倒れそうなのだが、とりあえず、一つ聞きたいことがある。 「あの、さ、男同士で、って…何するの?」 乾が沈黙した。それは河村と同じく無知故の沈黙では無く、言って良いのかなあ、と言う雰囲気だ。 「ピンキリだけど、例えば…」 そこからの記憶は酷く混乱していて乾がどいういう説明をしたのかはよく覚えていない。ただ、取り込んだ情報を自分と乾に当てはめて想像してしまったビジョンだけは鮮明に残っていて、なので乾がどういう説明をしたのか言葉では覚えていなくとも何を言ったのか分かってしまった。 更に困った事に、いや、恋人同士なのだから当然だと思うべきなのだろうかも知れないが、そのビジョンに性的高揚を覚えている自分が居るということだ。 少なからず反応してしまった下肢に、当分コタツを出れないと思う。というかコタツに入っててよかったと心底思った。 そんな河村の内心を知ってか知らずか、乾はぽて、と頬をコタツの板にくっつけてこちらを見て言った。 「俺、ネコでいいから」 「ね、猫?」 「する場合の挿れられる側のこと」 恥ずかしさで死ねるかもしれない。 「だって俺、タカさんの童貞欲しいもん」 ごすっと鈍い音が響いた。 それが自分の額とコタツがぶつかった音だと気付くのに、河村は暫くの時間を要した。 10.メリークリスマス (河村×乾/テニスの王子様) 十二月二十五日。寿司屋といえどクリスマスは稼ぎ時だ。 通常の営業時間を大幅に過ぎ、漸く最後の客が帰った。 後片付けを父と二人でしていると、台所のほうから山椒の良い匂いが漂ってくる。 お、と父が顔を上げた。二人は顔を見合わせて笑った。 早く片付けないとね、と笑いあって手を早める。 そして居間に上がってきた二人を迎えたのは、卓袱台に並べられた数々の料理。 里芋やゴボウ、人参などの煮物に手羽先の山椒焼き、ちくわの梅しそ巻き、蕪の肉味噌餡かけ、茶碗蒸し、冬瓜とささみの汁物等、河村親子の好みに合わせたものばかりだ。 「お二人の腕前と比べれば簡単なものばかりですが」 はにかむように笑うのは、それらの料理を用意した乾だ。 おひつからご飯をよそい、それぞれに差し出す姿はもう二人には見慣れたものだ。 二年前に独立した乾はこの店の近くに診療所を設けており、河村親子より自由に出来る時間が多い。 なので店の終いが遅くなった時はこうして乾が夕食を担当している。 「いやいや、十分でさぁ。なあ隆」 「うん。凄く美味しそうだよ」 クリスマスと言うことでいつも以上に豪勢なそれらに河村は乾に礼を言う。 そして三人はそれぞれ杯を上げた。 「「「乾杯!」」」 |