ヘーベの祈り

 



 いつもと同じジムの帰り。試合のビデオを借りに木村の家へ来た一歩は、夜露に当たらぬ様にと店内に戻されている鉢の一つに視線が止まった。
「木村さん、これ、何て花ですか?」
「あ?」
 鉢には濃い緑の葉と、その上に丸く集まって咲いている、小さな純白の花の群れ。
「あー…。お袋、これ、名前何ての?」
 しきびを束ねている母に問い掛けると、彼女は「どれ?」とこちらへやって来た。
「ああ、ヘーベだよ。今朝仕入れて来たんだ」
「ふーん。で、欲しいのか?一歩」
 二人の視線を受け、一歩は少し恥かしそうに笑って頷いた。
「何だよ、久美ちゃんにでもあげるのか?」
にやっと笑う木村に、一歩は慌てて首を左右に振った。
「ち、違いますよ!…部屋が、寂しいから…その…」
 もじもじとする一歩に、これ位にしておいてやるか、と木村は内心で笑う。
「そういう事にしておいてやるよ。お袋、これ、袋に入れてやって」
 ひょいとヘーベの鉢を取り、母親に渡す。「あいよ」と彼女は笑ってカウンターへと向かった。
「あの、お金…」
「ん〜そうだな、まあ後輩価格という事で半額で良いさ。三百五十円な」
 勝手に決めてしまう木村だが、母親も笑顔でそれをOKし、一歩は礼を言いながら木村の母に丁度の小銭を渡した。
「上がってけよ」
 ちょいと上を差した木村に、一歩はすまなそうに首を振った。
「すみません、行く所があるんで」
「そっか。んじゃ、ビデオ持ってくるから待ってな」
 木村は一歩をその場に残し、テンポ良く階段を駆け登っていった。



 木村からビデオを受け取った一歩の足は、自宅ではない場所へと向かっていた。
 一歩はある一件の日本家屋の前まで来ると、その門を潜り、玄関の戸を開けた。
 表札ある家主の名は、鴨川源二。
「お邪魔しまーす」
 一歩は馴れた様子でその戸を潜り、脱いだ靴をきちんと揃えて奥へと向かう。
 入ってすぐの茶の間への障子戸を開けると、そこには人の姿はない。
 電気も点いているし、靴もあった。家主はこの家の何処かに居るはずだ。
 一歩は荷物を部屋の隅に置き、更に廊下奥の家主の部屋へ向かい、その襖の前で立ち止まった。
「会長」
 声を掛けると、中から短い応えが返って来る。襖を開けると、家主である鴨川源二がネクタイを首から解いている所だった。
「ビデオ、借りてきました」
「うむ」
 一歩は衣装箪笥の戸に掛けられているスーツの上着を取り、それをハンガーに通して壁に掛ける。
「観るのは夕食の後にしますか?」
「そうじゃな」
「分かりました」
 一歩は部屋を出るとそのまま台所へと向かう。
 台所に置かれた古めかしいストーブの金網を開け、マッチで灯を点す。
 僅かなリンの臭いを掻き消すように、燃え上がる灯油の臭いが鼻を突いた。
「さて、と」
 一歩は立ち上ると冷蔵庫の戸を順々に開け、中身を確認していく。
「会長、」
 背後に聞えた足跡に、一歩は視線を冷蔵庫の中へ向けたまま声を掛ける。
「鯵の塩焼きと、三つ葉と椎茸のお浸しと、あとちょこちょこで良いですか?」
「構わん。ああ、長芋があったはずじゃ。ついでにそれも出しておけ」
「はーい」
 必要な材料を取り出して流しへと持っていき、鴨川の隣りに並ぶ。
「僕は鯵を捌くんで、会長は三つ葉と椎茸、お願いしてもいいですか?」

 一歩が鴨川の家に出入りするようになって、一ヶ月余りが過ぎた。

 鴨川と八木の他愛も無い談笑を一歩が耳にしたのが切っ掛けだった。
 一人身だと食事の用意が面倒になる時がある、そんなような話をしていた。
「じゃあ、僕が作りに行きます!」
 手を上げ、笑顔で告げた一歩に、鴨川もその時のノリでそれを了承してしまった。
 するとどうやら本気だったらしく。
 始めは途惑った鴨川も、思いの外楽しい夕餉に、これからもこの家を訪れる事を許可した。
 それからと言うもの、一歩は週に二、三度、夜釣りの予約の無い日にこうして鴨川の家を訪れ、夕食を共にする。
 時折そのまま泊まっていく事もあったが、大抵は夜も更けた頃に帰っていく。
 食事作りは二人で分担と決まっている。始めは彼を休ませたくて一人でやる事を一歩は望んでいたが、何もしないのは性に合わないと折れない鴨川に、一歩が妥協した。
 話す事といえば八割方がボクシング関係。そして残りが他愛も無い出来事の話。
 端から見れば奇妙にも見えるが、それが彼らの日常となりつつあった。



 夕食を済ませ、洗い物も終えた二人は茶の間で向かい合って座り、借りたビデオを観ていた。
 画面の中では試合終了のゴングの音と共に勝者が両腕を高く上げるのが見える。
「小僧」
「はい?」
「…いや」
 今の試合の事かと背筋を伸ばす一歩に対し、鴨川は言い淀む。
 その淀みに、鴨川の言いたい事に心当たりを付けた一歩は視線をゆるゆると落した。
「…や、やっぱり、迷惑、ですか?」
 消え入りそうなその声に、鴨川は苦笑する。
「そうではない。ただ、こんな老いぼれと一緒に居ても仕方あるまいと思ってな」
「そんな事ないです!僕は、好きでここに居るんです!」
「じゃが」
「良いんです。息子や孫へ向ける愛情と同じでも、会長の傍に僕が居るのを良しとしてくれるなら、それだけで良いんです」
 僕だって、と一歩は膝の上できつく握り締めていた拳から力を抜き、困ったような笑みで鴨川を見る。
「この想いが幼い頃亡くした父さんへの思慕から来るものなのか、恋なのか、分かりません。…でも、これが、恋であって欲しいと思っているのは、確かなんです。年の差とか性別とか、関係無しに…会長の傍に居たいんです…」
「小僧…」
 再び拳を膝の上で握り締め、一歩はじっと俯いてしまう。
「一歩」
「はい!」
 だが、名前を呼ばれた途端、ばっと顔を上げた一歩に鴨川は苦笑する。
「わしはお前を気に入っておる。じゃが、わしもキサマと同じじゃ。これがどういった愛情なのか、測り兼ねておる」
 ゆっくりと、一歩の大きなその目が見開かれていく。
「ジム以外でこの老いぼれと共に居て得るものがあるとは思えんが…好きなだけ、居れば良い」
「会長…あ、ありがっ…」
 感極まったらしい一歩がぼろぼろと涙を零した。その成人男子らしからぬ幼さに、鴨川は小さく笑った。
「全く…」
 身を乗り出して鴨川は一歩の髪をぐしゃぐしゃと掻き回すように撫でる。
「キサマには叶わんわい」
 一歩は擽ったそうに、そして嬉しそうに目を細め、小さく笑った。



「お邪魔しました」
 ぺこりと御辞儀をして出ていく一歩を見送り、鴨川は中身の無くなった湯呑みを手に台所へと向かった。
「ん?」
 テーブルの上でその存在をアピールしている純白の花。
 忘れ物かと思ったが、明らかに置いていきました然としたその鉢に、鴨川は唇の端を持ち上げた。
「全く、仕事を増やしおって」
 言葉の割に柔らかな表情をした鴨川は、その鉢を手に自室へと向かった。






(微妙な所でEND)
+−+◇+−+
鷹一を書こうとしていたのに、書き上がってみれば鴨一。初っ端からマイナー魂爆発。
全く後悔していない事に対して、申し訳御座いません。(何)
えーっと、鴨一での一歩は結構しゃきしゃきと言葉を話します。これが宮田くん相手だと吃って話が進みませんが。
ああそれにしても鴨一・・・思ってる人は居ても書いた事のある人って見た事ないです・・・誰か仲間になって下さい・・・(爆)
(2003/03/11/高槻桂)

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