碇草の鎖
「貴方は、愛されたいんだ」 鷹村が二階級制覇をやり遂げたその試合の直後。 「…記者連中は帰ったぞい」 控え室から頭だけを出して廊下を見渡していた鴨川の声に鷹村が「やっとかよ」とシャツを羽織った。 「にぎやかなのは嫌いじゃねえが、今回ばかりは騒ぐ気分じゃねえや…さすがに…」 珍しく鷹村の静かな声音に一同が沈黙すると、それを見計らったように軽いノック音が聞えた。 「おう」 鷹村の短い応えに扉が開き、二人の男が入って来た。 「てめえ…!」 入って来たのは、つい先程まで死闘を繰り広げていた相手、デビット・イーグルと彼の通訳担当の男だった。 『突然申し訳ない。イッポ・マクノウチに会いたいのだが』 通訳を介して伝えられた彼の言葉に、鷹村だけでなく、控え室に居た全員が驚きの色を浮かべた。 「何故小僧を…」 「鷹村さーん!」 鴨川の言葉を塞ぐように当の本人、幕之内一歩がやって来た。 「遅いんで心配…ええっ?!」 控え室に入るなりまさかのイーグルの存在にびくうっと体を竦ませる一歩。 「な、何でイーグルさんが…?」 驚きの声を上げる一歩同様、イーグルも驚いたような表情をしていた。 『キミはあの時の…』 どうやらサインした事を覚えていたらしい。彼は微かに恥かしそうに謝罪した。 『すまない、まさかキミがイッポ・マクノウチだったとは』 「そいつ、お前に用があるみてえだぜ」 「ええ?!」 鷹村の言葉に一歩は更に驚きの声を上げてイーグルを見る。 『キミに聞きたい事があるんだ』 「き、聞きたい事、ですか…?」 『ブライアン・ホークの事さ』 「え?」 目を丸くした一歩の声に鷹村の声が被さる。 「はあ?なんでホークの野郎の事を一歩に聞くんだ?」 「そうですよ。僕より、直接戦った鷹村さんの方が…」 一歩の言葉に、そうじゃない、と彼は首を振る。 『ブライアン・ホークはマモル・タカムラとの試合で負け、精神的に不安定になっていた。名を出すだけで取り乱し、暴れ始める。だが、やがて震え始め…一つの名を呼び始めた』 『「傍にいてくれ、一歩」』 WBC世界J・ミドル級タイトルマッチを制した鷹村の控え室。一歩はトイレに行くからとその部屋を辞した。 用を済ませ、控え室へと戻ろうとした時、廊下の向こう側から歩いてくる人物が数人。 「あ…」 一歩は思わず足を止め、真ん中を歩く人物を凝視する。 二人のトレーナーに挟まれて憔悴した様に歩いているのは、鷹村の対戦相手であった、元王者のブライアン・ホークだった。 あれから意識を取り戻したらしい。顔の腫れこそ酷いが、足取りはしっかりとしている。 トレーナーの一人が一歩に気付いた。 「キミは、タカムラのジムの子だネ」 リングで騒いでいたのを見ていたのだろう。彼は勝者の後輩である一歩に敵意を見せる事無く告げた。 「あ、はい、幕之内一歩と申します。あの、ホークさん、もう歩いたりして大丈夫なんですか?」 「アア。専属のドクターにも障害などはナイと言わレタヨ」 良かった、と表情を綻ばせる一歩に、唸るような低い何かが聞えた。 『何を馴れ合ってやがる』 ホークだ。彼は腫れ上がった顔を歪め、一歩を睨み付けた。 低い声で凄まれ、ぎらりと睨み付けられる。だが、一歩はそれを恐怖に思えなかった。 「ホークさん…」 一歩には、ホークのその表情が、試合前までの自信や傲慢さではなく、脅えているのを必死で隠そうとして威嚇しているようにしか見えなかったのだ。 「…貴方にとって強さとは、何ですか?」 不意に口を付いて出た質問を彼は鼻で笑い飛ばした。 『何、だと?強ければなんでも思い通りに出来る。女も、金も、何もかも!』 嘲るように歪められたその表情。 ああ、そうか。 一歩の脳裏に一つの答えが浮かび上がる。何故か仮説と思う事も無く、それを確信した。 「貴方は、寂しかったんですね」 一歩の言葉に、彼の表情が固まった。 「でもどうすれば良いのか分からなくて、恐怖を相手に植え付ける事でしか自分の存在を残せなかったんだ」 目を見開き、怒りからか微かに震え始めたホークに危険を感じたトレーナーたちが一歩を止めようとする。だが、既にそれは遅かった。 「貴方が求めていたのは強さじゃない。貴方は、愛されたかったんだ」 ホークが暴れ出すと思ったトレーナーたちは慌ててホークへと身構えたが、ホークは両手で顔を覆い、背を丸めて『黙れ』と震える声で呟いている。そんなホークの姿に、一歩は言い過ぎた、と謝罪した。 「す、すみません…えっと…」 只でさえ心身ともに大きなダメージを負っているのだ。そこへ追い討ちを掛けるような言葉を掛けてどうする。 一歩は背を丸めたホークへ歩み寄り、その顔を覆っている彼の両手をそっと外し、視線を合わせて微笑んだ。 「大丈夫です。強くなくても、貴方を愛してくれる人は、きっと居ます」 一歩の言葉にホークは呆然としたように一歩を見下ろしている。 何なのだろう、この少年は。 何故、こうも簡単に人の心に入って来るのだろう。 こんな存在は、今までいなかった。 皆、強さに引き寄せられた者ばかりだった。 『名は』 問われた少年は、「マイネームイズ、イッポ・マクノウチ」と答えた。いつもならイライラする筈の片言のジャパニーズ・イングリッシュも、彼が口にすると途端暖かなものに聞えてくる。 『イッポ・マクノウチ…』 記憶に書き込むようにその名を繰り返す。 ――貴方を愛してくれる人は、きっと居ます… もしそれがお前だったら、どれだけ良い事か。 「はへ?」 一歩が素っ頓狂な声を出す。それも仕方ない事だろう。一歩はホークに抱きしめられていた。 「あああああの?!」 一瞬にして真っ赤に固まった一歩がひっくり返りそうな声を出す。 『……』 自分を抱きしめているホークをどうしていいのか分からず慌てていると、微かなホークの呟きに一歩は体の力を抜いた。 「ええと…ホークさんがアメリカに帰るまでなら」 気が付いたら控え室に寝かされていて、自分が負けたのだと知った。 生まれて初めて味わう敗北感に、どろどろとした怒りや憎しみ、苛立ちが次第に体を支配していく。 あのままホテルに戻っていれば、確実に部屋は全壊していただろう。 だが。 ――貴方は、寂しかったんですね 不思議だった。 そう言われた途端、全身の苛立ちが消えた。 今まで、そんな事を言われた事が無かった。 誰もが強さに恐れて退くか、惹かれて寄ってくるかだった。 なのに、この少年はそのどちらでもなく、媚びも恐れも無い目で見上げて来た。 こんな事は、始めてだ。 殴るでもなく、抱くでもなく人に触れたのは、どれだけ振りだろう。 人の体は心地よい温もりを持っているのだと、初めて知った。 「……?」 いつもとは違うシーツの肌触りに、一歩は眠りから覚めたばかりの目を薄らと開いた。 寝ぼけた視線の先には褐色の何かがある。 「?!」 目の前にあるのが人の体だと、しかもそれがホークだと気付いた一歩は一瞬にして固まった。 (ななななななんでなんでなんで?!) 混乱の度合いが高く、「なんで」以外の言葉が出てこない。 青くなったり赤くなったりと繰り返しながら今度は「落ち着け」ばかりを繰り返す。 (ええとええとええと) 必死になってこうなった経緯を思い出そうとするが、焦りが先走って上手く考えが纏まらない。 (ええと確かここはホークさんの泊まってるホテルで、二人で話しててああいや話してないやえっとなんていうんだろぼーっとしてて?それで僕が帰ろうとしたら引き止められて抱きしめられて…) 思い出した。 (あのまま寝ちゃったんだ僕ーー!!!) かあぁっと一気に体温が上昇する。 (ていうかなんでホークさん服脱いでるんですかー?!あっでもあっちの人って全裸で寝る人も居るって…ってことはホークさん全裸ー?!) 落ち着きを取り戻しかけていた思考が再び混乱に陥っていく。緊張からぴくりとも出来ずに内心でおたおたしていると、混乱の元凶、ホークが目を覚ましてしまった。 『………』 顔を上げると、ホークがじっとこちらを見ている。 「え、えっと…お、おはようございます」 するとホークは暫く考え込むように沈黙した後、短く応えを返した。 昔から、眠りは浅かった。 いつ、殺されるか分からなかったから。 熟睡した記憶など、数えるほどしかない。 ましてや、誰かと一緒に眠った事など。 『………』 瞼を上げると、自分が横になっているベッドのシーツと共に黒髪が見えた。 己の腕の中に視線を落すと、顔中真っ赤に染まった少年と目が合う。 廊下で偶然出会い、そのまま連れて来た少年。 ――ホークさんがアメリカに帰るまでなら その言葉を違える事無く、逃げなかった少年。 「え、えっと、お、おはようございます」 何を言っているのかはっきりとは分からなかったが、多分朝の挨拶でもしたのだろう。適当に頷いておく。 カーテンの引かれる事の無かった窓を見ると、まだ薄暗い。それでもいつもは真夜中に何度も眼が覚めるホークからしてみれば十分珍しかった。 「あ、あの…」 「ン?」 おどおどとした声に視線を戻してみれば、言葉が分からなくても「どうしていいのか困ってます途惑ってます」とはっきり分かる顔をした少年に、自然とホークの表情が弛んだ。 『もう少し眠る。お前も寝ろ』 そう告げて彼は再び腕の中の少年を抱き枕代りにして眼を閉じた。 「えっ、あ、うぅ…」 わたわたしていた腕の中の温もりが、やがて諦めた様に体の力を抜いたのを境にホークは再び眠りの底へと落ちていった。 次にホークが目覚めたのは、それから数時間後だった。 ちゃんと腕の中の少年が存在する事に心の何処かで安堵しつつ、今度は起き上がって少年を腕の中から解放した。 特にこれと言った会話も無いままボーイに運ばせた朝食を済ませ、珈琲を口にしていると不意にホークが口を開いた。 『お前の名前はどう書くんだ?』 ホークの言葉にきょとんとした彼は「名前、ですか?」と辺りを見回した。 「ええと…」 彼はサイドテーブルの引き出しからホテルの名前の入った便箋とボールペンを取り出し、そこに己の名前を綴った。 「幕、之、内…一、歩…こう書くんです」 「…幕之内、一歩」 繰り返すと、「はい」と笑顔で肯定される。それが何処か嬉しくて、表情が自然と笑みの形となる。 『っ…』 だが、腫れ上がった顔はそんな些細な動きにも痛みを発し、ホークは僅かに顔を顰めた。 「あっ、そうだ、ホークさん、薬!」 それを見た一歩がそう言って立ち上った。そしてサイドテーブルに置かれているホーク専属の医師が置いていった錠剤やら湿布薬やらの入った紙袋を手にホークの隣りに腰を下ろす。 「えっと、これが痛み止めで…熱さましは、ええっと…」 てきぱきと指定分量の錠剤と水を用意し、「はい、どうぞ!」とそれを差し出す。 『……ああ』 滅多に薬を飲んだ事の無いホークは、手渡された白い錠剤を胡散臭げに見下ろし、ちらっと一歩へと視線を送る。 「飲まないと駄目ですよ」 『……』 ホークは子供の様に唇を尖らせ、それでもその錠剤を渋々飲み下した。 「はい、よく出来ました」 まるで子供扱いだ。 「それじゃあ、湿布を換えていきますね」 ホークは何処となく面倒臭そうに右腕を一歩へと差し出す。だが、それでも止めたりしない所を見ると嫌がってはいない様だ。一歩はそう思いながら湿布を剥がし、新しいそれを貼り付けていく。 『……』 その視線に嬉しそうな色が混じっている事は、湿布換えに集中している一歩は知らない。 『ありがとう』 「はい?」 ぼそりと呟かれたホークの言葉を、湿布に集中していて聞き逃した一歩が顔を上げる。 『いや、何でも無い』 「?」 だが、その言葉が繰り返される事無く、一歩は湿布貼りの続きを余儀なくされた。 『彼は孤高の野獣だった。誰も信じず、己の力だけを信じ、突き進んでいた。その彼が心許した相手がどんな人物なのか、知りたくてね』 イーグルの言葉を通訳の男が訳す前に一歩は「そんなこと、」と慌てて首を振った。 「別に僕は何もしてないです!偶然会って、ちょっとお話ししただけですって!」 それに加え彼の宿泊しているホテルに一泊し、その日の昼過ぎの便で帰っていくのを見送ったのだが。 そこまで言うと後が怖いので省略。偶然会ったのも少ししか会話をしていないのも事実なのだから嘘は付いていない。 『差し支えなければどんな事を話したのか、聞きたいのだが』 イーグルの申し出に、一歩は「すみません」と軽く頭を下げた。 「それは、ちょっと…」 『そうだろうね。…だが、何故彼がキミに心を開いたのか…何となく、分かる気がするよ』 「?はあ」 そう視線を伏せ、微かに微笑んだイーグルに、一歩は首を傾げる。 『時間を取らせて悪かったね』 「あ、いえ、あー、『気にしナイで下サい』」 片言の英語に、イーグルは先程の微笑ではなく、嬉しそうに笑った。 『有り難う。今度日本へ来た時は一緒に食事でも行こう』 『あ、はい、是非!』 イーグルは軽く片手を上げ、付添いの男と共に控え室を出ていった。 「………」 扉が閉じると同時に沈黙が降りる。一歩はその沈黙が怖くて振り返れないほどだ。 「えっと、い、一歩君、英語得意なの?最後の方は通訳の前に答えてたよね」 八木の必死の話題に一歩は縋り付くようにその話題に乗った。 「高校で習った程度だったんですけど、ホークさんとの事があってから頑張って勉強し…」 八木と一歩の引き攣った笑みが固まる。 しまった、泥沼だ。 「オイ、一歩」 「はっはいぃ?!」 鷹村の声に一歩はびくうっとしながら返事をする。何を言われるのかと、心臓破裂寸前の思いで鷹村の次の言葉を待っていると、一言。 「帰るぞ」 そう告げて立ち上った。 「…は?」 一瞬、何を言われたのか分からなくなった一歩は、間の抜けた表情で近付いて来た鷹村を見上げた。 「帰るっつってんだよ!」 ぐいーと耳を引っ張られて一歩は悲鳴を上げる。 「いたたたた!痛いです鷹村さん!」 「うるせえ!さっさと行くぞ!」 右耳を引っ張られたまま、出口まで一歩は引き摺られる羽目となった。 「じゃ、俺らは先帰るわ。あと任せた」 木村の言葉に一歩は「おやすみなさい」と彼らに頭を下げた。 完全に定員オーバーだった鷹村の部屋からぞろぞろと一歩と鷹村を残した全員が出ていき、ドアが閉められると同時に鷹村が舌打ちして布団に身を横たえた。 「室内温度上げるだけ上げていきやがって。おい一歩、窓開けろ。暑くて適わねえ」 「あ、はい」 一歩が窓を開け、鷹村の枕元に戻ってくるとがしっと腕を掴まれた。 「鷹村さん?」 「………」 首を傾げて見下ろしてくる一歩を、鷹村はじっと見上げている。 「??鷹村さん?」 「…てめえはオレ様の傍に居れば良いんだよ」 「?はあ…」 突然何を言い出したのだろうといった表情の一歩に、鷹村は再び舌打ちをして一歩の腕を放した。 「オレ様は寝る!」 そう宣言して鷹村は蒲団を引き上げると一歩に背を向けて眼を閉じた。 「?」 暫し首を傾げていた一歩だったが、まあいいか、と肩を竦めた。 「おやすみなさい、鷹村さん」 (終っちゃえ★) +−+◇+−+ なんて言うか、一歩お母ん、発動中って感じ。(何) 英語は意地でも使ってなるものかと思いながら書きました。(爆) それにしても、毎度同じく強引な話でスミマセン。反省はしてません。駄目駄目。 ていうか言葉、通じてますがな。取り敢えず、廊下であった時は通訳が居ました。面倒なので省きましたが。(駄目じゃん)まあ、二人きりでの会話は心と心の対話だとでも思って気にしないで下さい。アハハ。 因みにウチの一歩の英語能力は高校卒業レベルです。なのでホークが帰ってからは頑張ってお勉強した模様。きっと帰国後のホークもやる事無くて暇なので(をい)読む・話す程度は取り敢えず分かる程度に。ヴォルグよりちょっと劣るくらい。でもノートとか絶対使わなそう。辞書と文章見比べてるだけ。でも何度も何度も見てる内に覚えてそう。 ていうかさ、沈黙多いゾ、ホーク★(爆) (2003/03/28/高槻桂) |