桜草の君
「……っ…」 眼が覚める。 頭痛がする。 この痛みで眠りから引き上げられた。 吐き気もする。 まるで二日酔いのようなその不調に耐えながら鴨川は瞼を開けた。 ここは何処だと思う。 自分はあのバスを改造して作り上げた己の家で眠りに就いたはずだ。 部屋を見回し、ふと一つの鉢植えが目に留まった。 花が落ち、緑だけとなった鉢植え。 そうだ、違う。 あれからもう何十年と過ぎた。 どうしてそんな錯覚を起こしたのだろう。夢でも見たのだろうか。 混乱していた思考が鎮まっていき、鴨川は窓へ視線を移した。 窓から柔らかな光が射し込んでいる。 いつも自分が目を覚ますのは固さの残る光の中だ。どうやらいつもより遅い時間に起きてしまったようだ。 「?!」 額に当てていた右手へ視線をやり、ぎょっとした。 目の前に移るのは、肉と水分の落ちた年寄りの手ではなく、若々しい手だ。 だが、その手は己の意思に従う。擬う事無く己の手だ。 「どういう事じゃ…」 ゆっくりと体を起こし、己の体を見下ろす。 見下ろした先の己の体は、筋肉の付いた逞しい肉体。 あの頃、拳闘家として生きていた、あの頃の体だ。 あの頃? 「っ!」 また頭痛がする。 今はいつなんだ? 自分は幾つなんだ? 痛みを耐えながら記憶を探る。 戦争、敗戦、貧困、拳闘、米兵、ボクシング、猫田、ユキさん、ジム、八木、篠田、鷹村、青木、木村、一歩。 若い頃の記憶と、最近の記憶が浮かんでは沈んでいく。 どういう事だ。 鴨川は蒲団から抜け出すと洗面所へと向かった。 「…そんな馬鹿な」 鏡に映っているのは、紛れもなく若かりし頃の己の姿。 「何故……!」 ぴくっと表情が固まる。 そう言えば、昨日。 珍しく青木が茶を入れた。訝しんだが拗ね始めた青木に押し切られる形で飲んだのだが。 さして異臭などはなかったのでそんな事など忘れていた。 今思えば、あれから鷹村達の視線がちらちらとこちらを向いていた。 「………」 あのメンバーからして、主犯は確実に。 「たぁーかぁーむーらぁー!!」 びしりと鏡が割れそうなほどの怒りのオーラを撒き散らしながら、鴨川はここには居ない犯人どもを睨み付けた。 「おはようございまーす」 いつもの様に一歩がジムへやってくると、鷹村たちが何やら話し込んでいた。 「結局ニセモンだったみてえだな」 「面白いと思ったんスけどねえ」 「何の話してるんですか?」 一歩が近寄ると、「そういやお前は昨日早く帰ったんだったな」と青木が愉快そうに笑った。 「いやな、この前六本木で遊んでた時によ、面白い薬買ったんだわ」 「薬?」 首を傾げる一歩に、木村がひょいと肩を竦める。 「若返りの薬だなんて胡散臭えモンだよ。そんなモンに五千円も叩きやがって。しかも一粒の値段が、だぜ?」 「一粒五千円?!」 「そーよ。んで、現役の俺らが飲んでも意味ねえだろ?っつーことで会長の茶に混ぜてみたんだけどよ」 「会長の?!」 「だけどよ、あのジジィ、帰るまでなーんの変化もなかったからこりゃニセモンだっつー話を…」 スッパーーーン!! 『?!』 突如、かなり勢い良くジムの扉が開かれ、一同の視線はそちらへと集まった。 そこには灰色のスーツに身を包んだ男が怒りの形相で立っていた。 「誰だ?」 何処かで見た事があるような、との鷹村の呟きに反応するように男はざかざかと彼らの元へと近付いてくるなり、 「ばっかもんがぁ!!!」 怒鳴った。 「ななな何だ?!」 突然怒鳴られて面食らっている鷹村たちを尻目に、一歩はまさか、と声を上げた。 「か、会長?」 「「「?!」」」 一同の視線が一声に男へと向かう。 見覚えがある筈だ。 猫田のペンションで見た彼らの若かりし頃の写真。余りにも印象的だったので全員の記憶の片隅に残っていたのだ。 「おかしなもんを飲ませおって!」 「うわっ!」 ステッキの代わりに鋭いジャブが飛んできて鷹村たちは慌てて飛び退く。 「うん?」 だが、一人だけ未だ呆然としたままの者が居た。 一歩だ。 「小僧、いつまで呆けておる!」 「えっ?!あっ、はい?!」 怒鳴られて漸く我に返った一歩がぴしっと背筋を伸ばす。 「だ、だって写真のよりカッコ良かったからっ」 「ばっ…」 見る間に耳まで赤くなる一歩に、鴨川は同じ様に顔を赤らめる。 「「「………」」」 それを数歩下がった所から見ていた鷹村たちは一様に沈黙。 「……おい」 そしてひそひそと話し出す。 「何なんでしょうね、あの空気」 「一歩のやつはホモだホモだと思ってたけどよ、まさかジジィまでとは…」 「あ、だから独身なんじゃないスかね」 「そこ!何をこそこそしておる!!」 鴨川の一喝に三人が条件反射で姿勢を正すと、平静に戻った鴨川がつかつかと三人の前に近付いて来た。 「言いたい事は山ほどあるが、何よりこれは戻るんじゃろうな?!」 「ええっと、話では一日程度だって聞いてますっ」 「全くキサマらときたら…っ…」 突然鴨川が顔を顰め、頭を抱え込んだ。 「「「会長!」」」 「ジジィ!」 逸早く一歩が駆け寄ると、鴨川は苦々しげに舌打ちした。 「貴様らのお陰で頭痛が悪化しおったわいっ…」 「会長っ、とにかく会長室で横になって…」 一歩は有無を言わさず鴨川の手を引き、会長室へと連れていってしまった。 ソファに深々と腰掛けた鴨川は、差し出された痛み止めと水の注がれたコップを受け取り、それを飲み下した。 「は〜…」 そして魂まで抜け出そうな深い溜息が漏れる。 「大丈夫ですか?」 「ああ、すまん。全く彼奴等は…。…?どうしたんじゃ?」 きょとんとした一歩に鴨川が訝しげな視線を送る。 視線を受けた一歩は「あ、いえ、その」と仄かに頬を染めながら、肩を竦めるように笑った。 「口調はいつもの会長なんですけど、姿が若いからちょっと違和感が…なんて言うか、その…」 一歩の言葉に鴨川は視線を己の拳へと落す。 「違和感、か…。わしは「ここ」に居る事自体に違和感を感じる。頭痛の度に、記憶が混乱する。拳闘家として生きていた時に戻った様な気分じゃ。まるで、自分はまだその頃なのに、その頃から現在までの記憶を無理矢理詰込まれた気分だわい」 「会長…」 「鴨川で構わん」 「えっでも…」 「この姿で会長と呼ばれると、どうも居心地悪くてな」 苦笑する鴨川に、一歩は言い難そうにぼそぼそと告げる。 「あ、あの…名前、は…だめ…ですか?」 「名前?」 「あっいえっ何でもないですすみません!!」 真っ赤になりながら慌てて謝る一歩に、「構わん」と鴨川はくつりと笑った。 「それより、突っ立ってないで座れ」 ぽん、と隣りを叩くと、一歩は暫し視線を泳がせた後、鴨川の隣りへと腰を下ろした。 「えっと…げ、源二さん」 「何じゃ?」 「よ、呼んでみただけです…」 「そうか…」 空気一転。バカップルムード炸裂。 扉の向こうで盗み聞きしていた某三人が倒れかけたのは置いておいて。 「早く、戻れると良いですね」 そうはにかむ様に笑った一歩に、鴨川は苦笑した。 「…ずっとこの姿の方が良いのではないか?」 「どうしてですか?」 首を傾げる一歩に、鴨川は己の筋肉の付いた体を見下ろしながら言う。 「戻ってしまえば、また七十過ぎの老いぼれじゃ」 その言葉に一歩の表情が曇る。 「…何かある度、貴方はそれを言いますね…。まるで、僕の気が変わるのを待ってるみたいに…。でも、僕はもう決めたんです」 その強く、真っ直ぐな視線に鴨川は観念した様に溜息を吐いた。 「…お前の言う通り、わしはお前の気が変わるのを待っていたのじゃろう。わしは確実にお前を置いて逝くじゃろうて。それは逸らし様のない事実じゃ」 「それも、承知の上です」 ただ、と一歩が俯いた。 「一つだけ、お願いしても良いですか…?」 「うん?」 「その時は…誰より、傍に…居させて下さい…」 膝の上に置かれた手がぎゅっと拳を作る。その一歩の拳を見下ろしながら、鴨川は「わかった」と短く告げる。 「〜〜〜〜っ…」 すると、その拳の上にぽたぽたと水滴が落ち始める。 一歩は唇を噛み締めて泣いていた。 「小僧?」 鴨川の声に、一歩は「ごめんなさい」と掠れた声で告げた。 「僕はっ、ぼくは酷い人間ですっ…いつか、貴方の意識が途切れる、その最期の時に…僕を、想ってくれたら…きっと僕はこれ以上にない幸せを感じると思うんです…!」 「……」 ごめんなさい、と繰り返す一歩を、鴨川はきつく抱き寄せる。 「ならばその時は、手を…握っておってくれ…そうすれば、きっとわしは…幸せなまま、逝ける…」 鴨川の言葉に、垂れていた一歩の腕がそろそろと持ち上がってその背中に回される。 「はい…最期まで、傍に居ます…」 一歩が会長室を出る頃には、どうやらロードワークに出てしまったらしく鷹村たちの姿はジム内になかった。 だが、 「「「人生、楽しまなきゃ損だぞ」」」 彼らは帰って来るなりそう説き、一歩は首を傾げる羽目となった。 因みに鴨川の体は翌日には戻ったらしい。 (強制終了) +−+◇+−+ 若鴨川×一歩が書いてみたいと思ったのが切っ掛け。誰も彼も別人度200%でお手上げ状態。 実は名前呼ばせネタも寿命話も「ヘーベの祈り」の中にあったんですけど、若鴨が書きたいが為だけに話を分けました。(爆) 始めはエロも入れる予定だったのですが、気付いたらシリアスになってたので止め。本当は、肉体が若いから下が反応しちゃってアラアラな話になるはずが…あら?(最悪) 一番迷ったのは、会長の口調。口調を変えないとどうも若鴨のイメージが湧かなかったので、始めは口調も若鴨で書いてたんですが、人間そう簡単に口調が変わるモンでもないし、どうもしっくり来なかったので結局、外見若鴨で中身はそのままにしました。 ちなみに「ヘーベの祈り」からこの話までの間に会長は己の気持ちに気付いてます。 取り敢えず、今回もテーマは大きすぎる年の差について。 鴨一ってどうもイメージがカサブランカ。花言葉も合わせて考えるとヘーベ…(夢見過ぎ) (2003/03/13/高槻桂) |