アップルハニー(By ヒカリ様)
(天井ちかっ) 普段は目を閉じてすぐ、夢も見ないくらい深く眠る。そうして毎朝起きて早々、選手としての自分を意識する日々だ。天井の木目の様子なんて気にしたことがなかった。 こんな風になっていたのか。持田は布団のなかで驚きの息を吐く。その熱さに二度目、驚いた。 風邪なんてひくのは何年ぶりだ。 脳内検索をかけるが、すぐに機能がフリーズした。身体を動かすことも、考えることも億劫になっている。 この倦怠感は何しろ久しぶりであるのには違いなかった。久しぶりすぎてどう対処すればいいのかわからないくらいには。眠れば大丈夫だろ、と碌な処置せずにいたらもっとひどくなってこの有様だ。 プロ選手として体のメンテナンスには気を使うべきなのに、どうでもよくなっている。この心境は、抱えている足の不調と無関係ではない。 褒められたものじゃない、とは自身でよくわかっている。勝ちに対する飢えは日々増すのに反面、すべてが壊れればいいという凶暴な感情もあった。自分でもむちゃくちゃだと呆れるが、どうしようもない。 この玉座を降りるまでは永遠に続くジレンマだ。解決する手段は時をおいて他にはないし、誰かに打ち明けて気持ちを軽くしようなんて発想自体、持田にはなかった。 (誰にも、俺を理解することなんてできない) その必要性も感じていない。 目を閉じた。ここは孤独だ。そんなことはとうに知っているはずで、それが今更、痛みを伴うなんて。 (あー。おちる) 暗闇を覗き込むような、この思考は危険だ。囚われないように、なにか別のことを考えろ。 と、耳障りな音が静寂を切り裂く。 「……だれ」 湿った手でケータイを握れば。 持田は、表示されたかくも珍しい名前に目を丸くした。 (なんでこんなことになってんだっけ?) キッチンからの包丁の音を聞きながら、持田は少し前の記憶をたどる。 あの時、ケータイに表示されたのは達海の名前であった。 持田からかけることはあっても、達海からというのは珍しい。体の不調を悟られないように、抑えた声音で話した。 そんなに長くはない。内容だって、単なる世間話だ。 (達海さんだって、何の素振りも見せなかった) なのにその直後、達海は唐突に訪ねてきた。驚いて玄関に立ち尽くす持田に無言で冷えピタをはり、問答無用でベッドに転がした。持田が状況を正しく把握する前に、達海はキッチンに篭ってそのままだ。そういえばやけに大きな荷物を下げていた。 普通に考えれば料理を作っているのだろう。が、恋人になってこのかた、達海が料理をするところなんてみたことがない持田である。信じられない、というのが正直なところだ。 そもそも達海にまともな生活能力があるとも思えない。 (キッチン、爆発とかするんじゃねーの?) 半ば本気で心配していると、暖かい匂いが鼻腔をくすぐった。目を向けると、達海が盆にどんぶりを乗せてこっちにくるのが見えた。 「うどん、食う?」 「……食います」 意外にもうどんは大変おいしかった。そう素直に伝えると、食器をさげた達海は面白くもなさそうな顔で、 「どうせあんま食べてなかったんだろ。腹減ってたんだよ」 冷たく言い捨てる。 あれ。なんか怒ってんのか? 「達海さ」 「寝てろ」 起き上がったままの体が乱暴にベッドに沈まされる。達海はそのままベッドに腰掛けた。こちらを覗き込む瞳は静かな怒りを伝えている。 持田が口を開こうとしたら、再び達海に遮られた。 「お前ね、たまには頼れよ」 「…え」 「え、じゃなく。風邪ひいてんなら言えよ。俺だってこれくらいのことはできるんだからな」 え、それって。 ちょっとまて。まて。 「なんでわかったの、俺が風邪ひいてるって。っていうか、達海さんって俺の心配とかすんの?」 「お前、ほんと殴るよ」 言葉とは裏腹に、達海は持田をあやすように髪をなでた。 達海さん、俺のこと好きなの?俺と同じくらいに? 聞きたいのにうまく言葉にならない。言葉になったところでこんな子供じみたこと。 「すきだよ。だからもっと頼れ」 それは弱さじゃないんだから。 達海の声が、木漏れ日みたいに優しく降ってきて、持田は思わず目を細めた。そうして、ふいにわかった。 (達海さんは全部知ってる。俺のバカみたいな孤独も、ぜんぶ) 「達海さん。俺も」 知ってるよ。そう笑う。 「さて、持田くん。そろそろお薬の時間だけど?」 飲める? ことりと小首を傾げて聞くこの年上の恋人を、急に困らせてみたくなった。 やられっぱなしは性に合わない。 「飲みたくないんだけど」 「薬を飲めたら、いい子の持田くんにはうさぎさんのリンゴを食べさせてあげようと思ったのにな」 なにそれ! 達海さんのうさぎリンゴとかレアすぎだろ! 黙って恨めしげに睨む持田に、達海はちいさくふきだした。 「大人しくまってろよ、ダーリン」 ちゅっ。 音を立てて可愛らしく頬に口づけて去ったこの人は、なんて意地悪なのか! 「やっぱり俺のほうがもっとすきだよ。達海さんのばか」 呟いて、愛おしいあの人が戻るしばしの間、瞳を閉じた。 |