「電話なんかじゃ足りない」
(愛子、一歩/はじめの一歩)




早朝、ロードワーク中の伊達を待ち受けていたのは、今にも泣きそうな顔をした幕之内一歩だった。


「まあまあ、どうしたの?一歩ちゃん」
恐縮しきっている一歩を愛子は優しく迎えた。
「なーんか今にも世界が終わりそうなツラしてお前に合わせろっつーから連れて来た」
夫はただ連れてきただけらしく、事情は知らないらしい。
「すみません、朝早くから…」
「いいのよ、さ、おあがりになって。あなたはどうするの?」
「オレはジムに戻るよ。会長に何も言わず戻って来ちまったからな」
「ええ、そうしなさいな。さあさ、一歩ちゃん、どうぞ」
「失礼します…」
一歩が伊達家に訪れるのは初めてではない。
しかし用件が用件なだけに、一歩は無駄に緊張してしまっていた。
「うふふ、一歩ちゃん、そんなガチガチにならなくてもとって食べちゃったりしないわよ」
「す、すみません、早朝から…雄二くんは…」
「まだ寝てるわ。大丈夫よ、あの子、起こさないと起きないんだから」
ことりと目の前のローテーブルに温かな紅茶が置かれる。
向かいに愛子が座り、さて、と彼女はテーブルに腕を乗せてこちらに気持ち乗り出した。
「どうしたの?そんな思いつめちゃって」
「あ、あの………生理が、こないんです…」
数秒の空白が生まれる。
愛子は己の前で湯気をくゆらせるカップを見つめ、やがて一歩を見た。
「それは、遅れてるとかそういう意味じゃなくて?」
「その、元々不順気味ではあったんですけど…ここ二ヶ月くらい、来てなくて…それで、母さんが冗談で妊娠してるとかじゃないわよねって…ボクもまさかって思ってたからその時は否定して、終わってたんですけど…」
「考えてみたら、可能性に心当たりがあった、ってこと?」
こくり、と小さく頷く。
「病院には行ったの?」
「い、いえ、気が動転してて…とにかく、誰かに相談したくて…」
「そう…」
そして彼女は一口紅茶を啜り、静かにカップを置いた。
「それで、もしそうだったとして…一歩ちゃんはどうしたいの?」
「…わからないです…堕ろすなんてかわいそうだし、でも産んで、ちゃんと面倒見れるのかも不安で…それに、産むとしたら仕事の方もどうしていいのか…」
「そうねえ。じゃあ、色んなことはまずは置いておいて、産みたいか産みたくないのか、それだけだったらどう?」
産みたいのか、産みたくないのか。
一歩は口の中でその言葉を反芻し、噛み砕いて思考に行き渡らせる。
産むのは怖い。
けれど。
ここに宿っているかもしれないのは、宮田くんの子なんだ。

「…産みたい、です」

ぽろり、と涙が零れた。
「も、もしそうなら、す、好きな人の、子なんです、産みたい、です…!」
すみません、と慌てて涙をぬぐう一歩に、愛子は優しく微笑む。
「私は、その答えでいいと思うわ。勿論、ちゃんと調べてもらって、ただの不順だったらそれはそれで良いに越したことはないけれど」
私ね、と愛子は手元のカップに視線を落とす。
「雄二の前に、もう一人、子供がいたの。でも、私の不注意で、生まれてくる前に死んでしまった…」
「それって…伊達さんの…」
「ええ、あの人の初めての世界タイトルマッチの時…英二さんにも、あの子にも、本当に申し訳ないことをしたわ。産むことも、勿論育てることもとても大変な事だけれど、でも、あの悲しみに比べたらなんでもないの。私は、今でもあの時の英二さんの顔が忘れられない…」
「愛子さん…」
すると愛子は悲愴な面持ちを一転させ、明るく苦笑した。
「ごめんなさいね、湿っぽい話しちゃって。でもね、産みたいんだったら産むべきだわ。もし、相手の人が何か言ってきても、産むのは女ですもの。最終的な決定権はあなたが持つべきだと思うわ」
愛子の言葉に一歩は何か考え込んでいたが、やがて顔を上げ、はっきりと告げた。
「今日、病院に行ってこようかと思います。それで、もしそうなら…産みます」
「ええ、そうすると良いと思うわ。あ、そうそう、産婦人科に行くならスカートにした方が良いわよ」
「えっ!スカートですか?!」
「そう。調べる場所が場所ですもの」
「ぬ、脱ぐんですよね…?」
「そりゃあ脱ぐわよ。で、こういう台に座ってね、」
身振り手振りの説明に、一歩の顔が見る間に青くなっていく。かと思えば赤くなり、しかしやっぱり青くなる。
「そそそそんな格好できません〜!」
「うふふ、女の人はいつか通る道なのよ〜」
この後、更に詳しい手順を聞いて再び赤くなったり青くなったりする一歩の姿があったとか。





***
あーまた実話交じりです。ええ。
初めて診察台に乗ったときは大笑いしかけて大変でした。(爆)

 

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