「何でこんなにいい匂いがするんだろ」
(沢村、一歩子/はじめの一歩)




妊娠が発覚してからの一歩のジムでの仕事と言えば、用具の手入れや事務ワークばかりだった。
本人はサンドバックを打てないことに不満を覚えていたが、こればかりは仕方がない。
腹部が膨らみが目立ち始めてからも、やはり一歩は羨ましそうに練習生たちを眺めていた。

「よう、一歩、お迎えが来てるぜ」

そんな声にはっとして顔を上げる。
青木と木村がにやにやと笑いながら自分を見下ろしている。
一歩の考えなどお見通しなのだろう。少し気恥ずかしくなって頬に血が上っていくのを感じる。
「え?迎え?」
読むつもりで開いていた帳簿を結局読むこと無く閉じ、一歩はベンチから立ち上がった。
「いつものヤツだよ」
くいっと立てた親指で示されたのはジムの出入り口。
開かれたそこに凭れ掛かっている長身は。
「沢村さん!」
足早に近寄ると、彼はすっと戸から身を起こした。
「…今日、定期健診だろ」
送っていってやる、と続けられた言葉に一歩は恐縮する。
「え、でも前もお世話になってるし…それに、沢村さんのご用事はいいんですか?何か用事があってわざわざ東京に来てるんでしょう?」
すると背後でぶっと噴出す音が聞こえた。
きょとんと振り返ってみれば、青木と木村がげたげたと笑い転げている。
「?」
「…別に、大した用じゃねえよ」
そっぽを向いて告げる横顔に、一歩は「はあ」と返すしかない。
「さっさと行くぞ」
予約、五時からなんだろ。
その言葉にあれ、と時計を見る。
すると時計はきっちり四時半を示しており、一歩は慌てた。
「あ、あれ?もうそんな時間だったんだ」
どうやら随分長い間、練習生たちを眺めていたらしい。
一歩は再び羞恥に赤くなった。
「あっ」
ふいっと身を翻した沢村の後を慌てて追う。
一歩が通っている産婦人科はここから歩いて十分ほどの所にある診療所だ。
最初こそ総合病院に掛かったものの、利便の都合からこちらに変えたのだ。
「でも、最近良くこちらに来てますよね。お仕事ですか?」
「…別に。流してるだけだ」
「流す?」
その問いには答えず、沢村は目的の場所へと足を進める。
その歩みが普段より幾分も遅いことに一歩は気付いていない。
そもそも、何故沢村が一歩の検診のたびに訪れるのか自体、偶然と思っているのだ。気付くわけがない。
ついでに産婦人科に入ることも特に気にしない沢村は一歩が診察を受けている間も待合室で平然としているので、看護師たちには彼が父親だと認識されていることも一歩は全く気付いていない。


「お待たせしました」
診察から戻ってきた一歩はぺこりと沢村に頭を下げた。
そして会計に呼ばれるまで、その傍らに腰掛けて診察中の事を沢村に語った。
プリントアウトされた胎児の写真はちゃんと人の形をしていて、こんなのが人間になるのか、と言えばもうちゃんとした人間ですよ、と返される。
「沢村さんも、ボクも、こんな時期があったんですよ」
そう言われたって実感など湧くわけが無く、ただ「ふーん」、と一歩の膨れた腹部を見下ろすだけだ。
「最近、胎動も感じるんです。まだ触った感じじゃわからないけど、中でぴくって動くのを感じるんですよ」
この中に人間がいると思うととても不思議な感じだ。
沢村は会計に呼ばれ、窓口に向かう一歩の後姿を見ながら思う。
「お待たせしました。帰りましょう、沢村さん」
振り返ってそう笑うあどけなさの残る少女の笑顔は、何処か母親の匂いがした。







***
そういや妊娠中の話は書いてなかったなあと思って。丁度妊娠5、6ヶ月くらい。
待合室に沢村がのーんと座ってたら引きます。胎教に悪い。(酷)

 

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