凛として響くその音をキミに





夜を迎えても一向に人の減らない、寧ろ増えているだろう人込みを凛は一人で歩いていた。
(あ〜…完全に声が出ねえ…)
帽子を目深に被り、視線を落して歩きながら一切音を奏で無くなった己の喉を摩る。
(これがあと五日も続くのか…)
一昨日のパイロット版ボイスレンジャーの完成を記念したパーティーの中、凛の声はダニエルの言った通り全く出なくなった。
まあ一週間くらい、と思っていたものの、これが予想以上に堪える。
息をすると同じように当たり前だと思っていた発声が全く出来ないのだ。通常の声は勿論、生み出せるのはヒューヒューと喉を通る微かな空気音だけで、微かな掠れた音ですら凛の喉は紡いではくれなかった。
畜生、と内心で毒づきながら人込みを掻い潜っていく。
「!」
目的と言えるほどのものは無かったが、とりあえず道路向こうのコンビニでも行こうかと、青になったばかりの横断歩道に足を踏み入れてぎょっとする。
(響邦彦!)
信号待ちをしている大量の車のその先頭、一見しただけでも馬鹿高いと分かる車の後部座席に響邦彦の姿があった。
向こうもこちらに気付いたらしく、窓から差し込むネオンの光に照らされた無表情が微かに揺れた。
どうしよう、と凛は途惑いに揺れた。
活動停止の制約を破棄してくれた事、それを一言で良いから礼を言いたかった。
けれどこんな所で、という思いと声が出ないという事実が凛の脚をその場に縫い付けるだけに留まる。
すると、静かに後ろのドアが開いた。
「乗りなさい」
響の思わぬ申し出に、凛はきょとんとする。
「早くしろ。青に変わる」
はっとして歩行者用信号を見上げると、ぱかぱかと点滅していた青が次の瞬間赤に変わった。
「!」
凛は慌てて響の車に乗り込み、ドアを閉めると同時に青に変わった信号機にほっと息を付いた。
「それで、何か用か」
静かに走り出した車内に響いた低い声に、凛は再びはっとした。
(しまった!つい乗り込んじまった!)
だが時既に遅し。
(こうなったら言うだけ言ってその辺で降ろしてもらうさ)
「…っ…!」
そう口を開いても声は出ず、凛は赤くなった。
そうだった、声が出ないんだった。
一昨日から何度思ったか分からない台詞を心中で嘆き、そしてどうしよう、と青くなる。
「?…声が出ないのか?」
赤くなったり青くなったりしている凛に響が察して声を掛ける。
こくこくと頷く凛に、響は考え込むような仕種をした。
「……」
「?」
凛が首を傾げると、響はすっと視線を凛に向ける。
相変わらず何を考えているのか分からない、色の無い視線だと思う。
「筆談なら出来るだろう」
そう言って響は視線を前へと戻した。
「??」
話は終わった、と言い出さんばかりに前を向いてしまった響を横目で窺いながら凛は困惑する。
筆談なら、と言いながらも彼は紙もペンも出そうとしない。勿論凛は財布と携帯電話をポケットに突っ込んであるだけで、明らかにそんな物は持っていないと知れる。
何なんだ、と思っている内に車は閑静な通りへと入っていき、あるマンションの前で止まった。
素早く降りて恭しく扉を開ける運転手。
響に続いて車を降り、凛は始めて東京に来た地方人のように口を半開きにしてその高層マンションを見上げた。
(すっげー高そう…アレだ、いわゆる億ションだ…)
如何にも高級マンションですーな出たちのその十数階建てのマンションを見上げていた凛は、響の声に我に返った。
「御苦労」
労いの言葉を貰った運転手は静かに一礼をして車内へと戻り、車を何処かへと走らせていった。
困惑気味の凛に、響は「来い」と視線で促す。
こんな所でいつまでも突っ立っているわけにも行かず、凛は渋々と男の後を追った。
常夜灯に照らされた御影石のアーチを抜け、ロックを解除されたアクリルの扉を潜ってきょろきょろと辺りを見回す。
オイオイ、たかがマンションのエントランスにこんなモン必要ないだろ、と思わせる天井のシャンデリアに口角を引き攣らせ、管理人室の窓口から覗く管理人らしき中年の男と目が合って咄嗟に会釈をする。
エレベーターに乗り込むと、響の指先は七階のボタンを押した。
一言礼が言いたいだけだったのに何やらおかしな事になっている。
そう思いながら響を見上げるが、相手はいつもの涼しい無表情のままだ。
チン、と在り来たりな音を立ててエレベーターが止まる。こちらを一瞥もせずフロアに出る響に続いて凛もフロアに出た。
ここでもきょろきょろと辺りを見回していた凛はあれ?と内心で首を傾げる。
その階には扉が一つしかなかった。つまり、七階全てが彼の部屋という事なのだろうか。
七階唯一の扉の前で響が立ち止まり、凛は表札に視線を上げた。
響邦彦、と記された表札に確かにここはこの男の自宅なのだと実感する。
「……」
入れ、と視線で促され、凛はおずおずと扉の中へと入っていった。
さっさと中へ行ってしまう響に続いて靴を脱ぎ、内心でお邪魔します、と呟いて足を踏み入れる。
(広っ!)
リビングの入り口で凛は「うわー…」と声にならない声を上げる。
この部屋だけで凛の部屋を軽く上回っている。
ざっと見回しても他にも幾つかの部屋が在る様だ。殆ど平屋と変わらない。
凛は自分が住んでいる部屋は己の年にしては贅沢をさせて貰っていると思っている。けれど、やはりこういった広々とした己の城、というものは羨ましい事この上ない。
「いつまで突っ立っている積もりだ」
その場でぼけっと立ち竦んでいると、背後には上着を脱いだ響が湯気の立つ二つのマグカップを手に立っていた。
「!!」
慌てて道を開けると彼は手にしているマグカップの一つを凛に渡し、ソファに腰掛ける。
(…レモネード?)
手渡されたマグカップから漂う爽やかな香りに凛はきょとんとする。
響のカップに視線を向けるとそちらはどうやらコーヒーのようだ。
「座らないのか」
いつまでも突っ立っている凛に響が微かに片眉を上げる。
凛は暖かなマグカップを手にしたまま彼の向かいのソファに腰を下ろした。
だが、声を失った凛には間を持たせる事などできず、渡されたレモネードを啜るしかない。
(あ、美味しい…蜂蜜が入ってる…)
思っていたよりも甘みのある柔らかい味に凛は微かに目を見開いた。
コトリ、と何かが置かれる音に凛は視線を上げる。
「言いたい事があるのだろう、これを使え」
ガラステーブルの上に置かれたのはメモ帳とボールペンだった。
凛はカップを手で倒さない様テーブルの真ん中近くに置いてペンを取った。
『活動停止の制約、破棄してくれてありがとう』
「……」
差し出されたメモ帳に走った文に響は微かに目を見開いた。
「…言った筈だ。小さな約束より美しい音楽の復活を歓迎する、と」
『でも、嬉しかったから、どうしても礼が言いたかった』
視線を上げると、少年は照れ臭そうに笑っていた。
この少年は自分の目の前に居るのがどんな立場の人間か忘れているのではないだろうか。
そう思っている間にも凛はペンを走らせ、書き終えた紙をこちらに向ける。
『それだけなんだ。邪魔して悪かった』
そして更に『レモネード、御馳走様』と付け足して立ち上ろうとした凛を響は引き止めた。
「待て」
そして立ち上り、僅かに不安の差した表情で見上げてくる凛の傍らに立ち、その頬に手を伸ばす。
「?」
「…声はもう出ないのか?」
微かに細められたその視線がどこか苦しげで、凛は慌てて何度も首を左右に振った。
「そうか…体の方は」
「?」
体?と首を傾げる凛の傍らに響が膝を付く。
ぎしり、とソファが軋む。
「あの時、炎に包まれた時、火傷は?」
両頬をやんわりと大きな手で包まれ、更に距離が縮まった事に途惑いながらもふるふると凛は首を振る。
良かった、と響が呟いた。
本当に小さな声で、ほとんど聞き取れなかったけれど、確かにそう呟いた。
目を丸くして見上げてくる視線に気付き、響は微かに苦笑してその瞳を覗き込むように視線を合わせる。
「滅多に会わない所為か…目の前に居るというのにその声が聞けないのは…思いの外、堪える」
如何にも「驚いています」と言わんばかりの表情をした凛に、彼は「不思議か」と告げる。
「私がお前の声を好ましいと思うのが」
そしてくいっと凛の顎を持ち上げると、男はその露わになった喉元に唇を寄せた。
「?!」
ぎょっとして凛が硬直している間に響は喉元から鎖骨に近い場所にも唇を寄せる。
「〜〜〜〜〜!」
響が顔を上げる頃には凛の硬直も溶けており、勢い良く立ち上るとその顔を真っ赤に染め、口を酸欠の金魚の如く閉開させた。
だが当の響と言えば涼しい顔で、それが余計に凛の羞恥を誘う。
「声が出るようになるまではこれだけにしておこう」
「〜〜〜!!!」
しれっとして告げる男に凛は声にならない声で何事かを叫び、ばたばたと部屋を出ていってしまった。
ガチャッバタンッ!!
玄関での音がしてから響はソファへと身を任せ、そしてくつくつと可笑しそうに笑った。






(END)
+−+◇+−+
これもナルトSSと同じく途中で投げ出して半年だか一年だか眠ってた作品。
これを書き始めた時は響のマンションでエロに突入する予定だったんですが、今の私は精神的に乾上がっているので(爆)書く気になれませんでした。
あ〜まさか今更になって、一応の形とは言え書き終える事が出来るなんて。ホント何があるか分かりませんね。
(2003/09/18/高槻桂)

戻る